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南部藩発祥の地、聖寿寺館跡。南部町正寿寺集落の南西。名久井岳を望む馬淵川沿いに位置。2017年7月にも中世アイヌ民族の印(シロシ)が施された中国産染付皿が出土し、館にアイヌが居住していた可能性が高まったとして非常に話題となりました。
※聖寿寺館跡についてはまだまだ新たに発見されていることが非常に多く、今後、当記事の内容についても大きく覆される可能性が十分にあることをご了承ください。
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聖寿寺館跡は、東北北部最大の中世武士団であった南部氏の室町時代から戦国時代にかけての居城です。周囲に平良ヶ崎城・佐藤館・小向館・馬場館が置かれ、防御を固める一方、まわりを奥州街道や八戸・鹿角街道、馬淵川などに囲まれ水陸交通の要衝でもありました。聖寿寺館が天文8年(1539)に焼失したのを契機(家臣赤沼備中の放火)に、三戸南部氏は三戸城へと移り、さらに福岡城(二戸市)を経て、江戸時代初期には盛岡城(盛岡市)へと移っていくこととなります。
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案内板を見れば色々と残ってますね。でも徒歩で回るのはきつそう。
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①国史跡聖寿寺館跡…『北面と東面が堀で区切られる。南西面は断崖。』
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②聖寿寺館跡西側虎口…『虎口とは城館の出入り口を指す。敵の侵入を防ぐような構造に作られていた。』
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③聖寿寺館跡堀跡(奥州街道)…『城館東側の堀底は奥州街道として使われていた。』
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④南部利康霊屋(国重文)…『第27代当主・南部利直の四男。技術の粋を結集した桃山様式の霊屋。1631年没。』
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⑤平良ヶ崎城跡(町史跡)…『南部氏が最初に築いたと伝えられている。城館からは15世紀~16世紀前半の陶磁器などが出土している。』
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⑥塚ノ越古塚(町史跡)…『当時の八幡宮別当佐々木家が、南部氏の墓として代々供養してきたことから南部氏の御塚といわれている。』
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本三戸八幡宮…『甲州から勧請したといわれる。南部藩主の保護下にあり石高が与えられ、藩主の代参が行われていた。』
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23代南部安信の墓(県重宝)…『第22代当主・南部政康の長子。津軽に弟の石川高信を、不来方(こずかた)に信房を派遣し、南部氏の領土拡大を推し進めた。1525年没。』
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大型竪穴建物跡。
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倉庫や工房のあと(案内板より)…『聖寿寺館跡北東部に位置するこの辺り一帯は、15世紀後半から16世紀前葉にかけて、半地下式の竪穴建物が立ち並ぶ場所でした。建物の中からは、陶磁器や金属製品など、当時の生活が伺える道具が出土しています。中でも、南北14.2m、東西6.4mの規模を誇る国内最大級の大型竪穴建物は、その広さから倉庫兼工房(作業のための建物)と考えられます。また、中型竪穴建物は床から焼土とともに坩堝(金属を溶かす入れ物)が出土しており、鍛冶工房であったと考えられます。小型竪穴建物はその規模から倉庫と考えられます。』
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竪穴建物の配置図。
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大型竪穴建物外観想像図。
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工房内の作業イメージ。
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小型竪穴建物跡。
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中型竪穴建物跡。
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大型竪穴建物跡。平成10年検出。
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櫛払(平成6年出土)…櫛についた汚れを払う化粧道具の一つで、朱漆が塗られています。長さ4.2cm、厚さ3mm。平成9年6月に町の文化財指定。
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金箔土器(平成26年出土)…京都産の金箔土器で、内外面に黒漆が塗られ、その上から金箔が貼られています。南部氏の都との交流を物語る逸品。
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向鶴青銅製刀装具(平成26年出土)…南部氏の家紋である向鶴が刻まれた最古の製品。目貫と呼ばれる刀の柄に施された装飾品と考えられます。
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初代南部三郎光行と…
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猫軍曹・猫中尉。
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