イメージ 8
三戸町大字斗内字清水田。天明の大飢饉(天明3-4年卯辰)では当地方でも多くの餓死者が出ました。4年秋には同地は豊作となりましたが不仕付が多く、道路傍や山野にも無数の死者が放置されていました。
イメージ 9
斗内の林泉寺の檀家頭であった栗谷川藤右衛門はこの無縁仏を哀れみ、せめて首だけでも葬りたいと、翌5年に林泉寺のそばの丘に首塚を立てました。 4つの塚に葬られた首の数は1千といわれ、やがて千人塚と呼ばれるようになり、同7年まで3か年にわたり寒夜30日の百万遍供養をしました。
イメージ 10
墳丘4基は盛土。正直、千人の塚があるのかと思っていました。
イメージ 11
写真ではわかりにくいですね。くれぐれも踏まないようにね。
イメージ 12
供養碑。供養塔・台座は石造。
イメージ 1
供養碑正面には「天明五巳天十月廿五日卯辰飢死渇亡無縁塔」、裏面には「林泉寺七世胤龍代沖田面施主栗谷川藤右衛門石切惣右衛門」の銘文。
イメージ 6
イメージ 7
右側面には「天下泰平國家安全五穀成就無病」、左側面には「國界安寧兵革銷風調雨順民康樂」といったように天下泰平と民の幸福を願う字句が刻まれています。
イメージ 4
イメージ 5
斗内千人塚(県重要文化財・昭和63年1月16日・史跡(塚4基、供養碑))…『ここは、「天明の大飢饉」で亡くなった人々を供養したところです。天明3年(1783)は稀にみる寒冷の年で、作物がほとんど実らず全国的な凶作となりました。食糧不足から飢饉となり、このために疫病が蔓延するなど、領内は多くの死者であふれたと言います。遺体は埋葬もされず、道端のあちこちには骨が転がり、村は荒れ果てていきました。この惨状を哀れんだ斗内の林泉寺檀頭栗谷川藤右衛門は、せめて頭骨だけでも弔いたいと思い、首一つ(死者ひとり)につき24文払うことを条件に、遺骨を集めさせます。集められた遺骨は四つの塚に納められ、傍らに石碑が建立されました。天明5年、曹洞宗普門山林泉寺の胤龍和尚が導師となって、餓死者たちの供養が行われました。現在も、地域住民による供養が続けられています。平成27年三戸町教育委員会』
イメージ 3
供養碑に刻まれた文字。
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 2