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法光寺の千本松・爺杉からの続き。
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曹洞宗別格地、白華山法光寺。
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山門工事中…。
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月見橋渡れず…。
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山門。
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遠州流庭園。
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特にツツジの時期が美しいそうです。
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迂回します。
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六道能化地蔵尊。
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縣立公園碑。
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山門とは違う道から向います。
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遠州流庭園と月見橋。
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今から760余年前、すなわち鎌倉時代に当時の執権最明寺入道時頼公がこの地方を旅した時、美しい名久井岳を見てこの山奥まで登りました。帰途中腹のある寺に一晩の宿を頼みましたが断られ、やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めました。庵寺の玉峰損城和尚はありあわせの品で心から暖かいもてなしをしました。時頼公は庵主の人柄に深く感激し翌朝自分の持っていた扇子の表に「壱千石名久井通り右永代可令知行也」と書き寝室に置いて下山しました。また、扇子の裏には時頼公は「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海より出でて山に入る月」最明寺入道時頼花押と一首詠んでおります。時頼公が下山の途中庵主に出逢い庵主は「朝食のご飯がないので托鉢をしての帰りです。どうぞいま一度寺に…」とねんごろに帰山をすすめたが、時頼公は好意を感謝し別れました。いまの「出合坂」地名の起こりです。翌年鎌倉の時頼公から使者が参り、世話になった庵寺に七堂伽藍経堂を立派に建て白華山法光寺としました。開基は北条時頼公、開山は当時の庵主損城和尚、山号は門の下の蓮の池の白蓮華に由来して「白華山」です。明治年間火災により焼失し、再建しています。昭和24年三重の塔(承陽塔)を建立し曹洞宗の開祖道元禅師の御霊骨を奉安しています。昭和32年山内老松、老杉などの幽玄の地として青森県立自然公園に指定。また現在の法光寺本堂、研修道場及び鐘楼は昭和58年に新築。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』にも次のように書かれています…『(前略)…山頂の変化がきわめて個性的な名久井岳(618m)が、真向かいに見える。県立公園である。その中腹に法光寺(曹洞宗)があり、鎌倉の最明寺入道時頼の回国伝説が伝えられている。すなわち、弘長2年(1262)の冬、旅僧の姿に身をやつしたさきの執権北条時頼が、諸国を回ってこのあたりにさしかかった。名久井岳の近くにあった観音寺をたずねて、住職に一夜の宿を乞うた。身分いやしい旅僧と見た住職は、すげなくこれを断った。やむなくここを出て、ふもとをさまよった時頼は、小谷に庵を結ぶ指城和尚のもとにたずね当たり、心よく迎えられて厚くもてなされた。あくる朝、時頼は和尚に千石を与える旨のお墨付きを残して、ひそかにここを立ち去った。やがて鎌倉に帰った時頼は、すぐ家来をつかわして、さきの観音寺をとりこわさせ、そのあとに法光寺を創建して、指城和尚を住職にしたという。法光寺から名久井岳への登山コースが樹海ライン。(後略)』
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工事中の山門。
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寶物館。
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本堂正面。
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石灯籠一対(昭和47年5月吉日)。
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狛犬一対。
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中国獅子系。
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石灯籠一対(昭和47年5月吉日)。
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承陽大師之石像(昭和35年8月吉日)と碑文。
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承陽大師之石像と松。
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密迹金剛。
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那羅延金剛。
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観音像。
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本堂。
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本堂正面向拝部分(唐破風造り)。
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額束。
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彫刻が見応えがあります。
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木鼻。
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天女の彫刻。
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こちらはよく見えませんでした。
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邪気ではなく黒石の保食神社に見られるような力士像っぽいですね。
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左は雲中供養菩薩北25号かな。
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白華山法光寺縁起…『法光寺は、今から千百三十余年前(平安朝時代)に創立されたもので、それより四百年程経て鎌倉執権最明寺時頼公がひそかに奥州行脚の折に名久井岳に登られ、夕陽をあびて無量山観音寺と称する寺に一夜の宿を乞うたが山主は応じてくれなく、やむなく山に登って一草庵をたづねて宿を乞うたところ、庵主大いに喜んで迎え、出来合であったが饗応して一夜を過した。時頼公は、庵主の歓待に深く感謝し、翌朝目がさめ、あたりを見たが庵主が見当らなかった。時頼公は携えて来た扇面に「目通り壱千石、右永代可令知行也 最明寺時頼(花押)名久井山主玉峰捐城和尚殿」とかき、別面には、「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海よりいでて山に入る月」の一首を残して、名残り惜しげに庵を立ち、山を下る途中で庵主に逢った。庵主の云うには「恥かしながら今朝飯糧がなかったので、お客人の目覚めぬうちに托鉢に出てこのように喜捨をうけて帰ったので再び庵に戻られるように」とねんごろに勧めた。時頼公は、このことに深く感激して、鎌倉に帰られた。最明寺時頼公と庵主の逢われた処が「出逢坂」と称してあり、またこの庵を夢想軒と称して、今なお「古寺」としてその面影を残しています。時頼公が鎌倉に帰られるとすぐ、宮野玄蕃、板垣監物の両人を普請奉行として、大工、左官、鍛冶、木挽に至るは遣して、観音寺は命令をもって廃止し、その跡に、七堂伽藍を建立して、白華山法光寺と号して、開山には捐城和尚を請す。公自ら開基となられ、曹洞宗の道場を開設なされたものと伝えられている。昭和54年6月之を誌す』
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本堂と位牌堂との間に鐘楼。
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梵鐘。
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永代供養塔(平成28年秋)。
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法光寺本堂再建記念碑…『法光寺は今から、おおよそ、750年前、鎌倉時代時の執権、北条時頼公によって開かれた寺で、開山に玉峰捐城大和尚が座られ、七堂伽藍を有している東北でも数少ない寺であった。爾来歴代住職によって法燈がうけ継れ、その間、不幸にも3度の火災に遭い、その都度、伽藍を復興してきたが、明治11年1月2日未明の3回目の災難後、仮本堂を建立し一時をしのごうとのことであったが、仮のまゝ百数年の歳月を数え、老朽はなはだしく、こゝに機熟し宿願かない、数多くの檀信徒、心ある方々の御寄進を仰ぎ無事完成、落慶円成のはこびとなりました。茲に、信心の施主の御芳名を刻し、その功徳を後世に末永く讃え、御懇篤に謝意を表するものであります。』
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そうじ小僧さん・南部七福神。
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七福神マニロコ(マニ車)。
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亀の上の七福神をまわしながら拝みます。
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工藤巒仙句碑(昭和庚申年5月吉日)…「血縁のうすれゆく故郷鳥雲に」七十五翁巒仙。
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裏面碑文。
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こちらの石碑は壊れていたので読まず。
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立派な灯篭が一対ありました。
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十二支もいます。
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台座もかっこいいですね。
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