イメージ 1
標柱はありますが坂の説明はありません。但し、坂上に鎮座する八坂神社の境内に設置された案内板を読めば、坂名の由来がわかります。
イメージ 2
五日市城(下名久井城)の由来…『鎌倉幕府御家人の工藤祐経(源頼朝の重臣)の長男でもある犬房丸(工藤祐時)は、訳(曽我物語)があってこの地を賜り五日市に築城した犬房丸伝説がある。犬房坂(いばさか)と言い伝えられる坂があり、由来として語り継がれている。それに工藤祐時の子息も居城と言う伝説もある。あるいは平泉の藤原氏の討伐の功績により源頼朝から糠部地方を拝領し、鎌倉幕府御家人である工藤小次郎行光の弟の祐光(又は資光)が、文治5年(1189年)~建久9年(1198年)頃、五日市村に下向し築城したと言われている。五日市城は7つの館(大舘、外舘、仁良舘、和舘、東舘、絵舘、古舘)を形成し、本城(大舘)には舘神があり、集落内には家来の屋敷(在家、台所屋敷)、施設の跡(鍛冶長根、元町)、後家堀(ごけっぽり)など、城跡に由来する地名が現在もある。北西に馬淵川、南に五日市川(如来堂川)、東には油川が流れ、約250町歩の広さを領有し、唯一の水源がある東舘の遠方の助川方面より用水路の造成を為し、七舘まで水を引き堀を巡らせて本城を防衛した。舘跡の其の遺構からも堀割が重要を為し、さらに五日市川、油川の段丘と湿地をも利用した、大規模で守りのかたい天然の要塞でもあった。尚、里人の言に依れば天文年代(1532~54年)に、三戸南部氏の宗家24代南部晴政の家臣、赤沼備中が五日市城主であると言われ、赤沼という地名も現存している。その後の五日市城は城主不明となり、様々な諸説はあるが慶長3年(1598年)の「三戸舘持支配帳」には載っていない謎に包まれた城跡となった。昭和に入り諸事情で八坂神社周辺の堀跡と池、その他の堀跡、用水路も埋め立てられた箇所もあるが、名久井岳を真向かいに望み、風和む丘の五日市は自然の災害も少なく温暖な気候と豊かなる郷として中世の面影を今に伝えている。平成24年3月吉日』
イメージ 3
坂の場所は五日市舘跡です。下記地図では外舘を挟んで、犬房坂(伝)と犬房坂(現)とありますね。写真は犬房坂(現)の方です。五日市舘跡はこの地図通りにそれぞれ標柱が立っているのでわかりやすいですね。今回は時間が無くてあまり見ませんでしたが、いずれじっくり回りたいです。
イメージ 4
犬房丸は鎌倉幕府御家人の工藤祐経の長男。父が曽我兄弟に討たれたとき、犬房丸は南部地方に逃れ、当地方の工藤氏の祖になったという伝承があります。名川町名久井には犬房丸の長男が上名久井の祖となって東氏を名乗り、下名久井には次男が居住し工藤と称したと伝えます。そのため名久井には「工藤は7百年」といわれるほど工藤の姓が多いといいます。蕪嶋神社には犬房丸が弁財天を祭った由来があり、湊にある大祐神社には犬房丸を祀ります。八戸の根城を領知した南部氏は工藤氏が婿に入って跡を継いだという説もあります。こららの伝説は鎌倉時代中期以降、この地方に、北条得宗領(本家)の御内人(北条家家臣)である工藤氏の所領が多いことから生まれたものであると考えられます。
イメージ 5
犬房坂坂下。
イメージ 6
犬房坂坂上方面。
イメージ 7
イメージ 8
おまけ…名川町のマンホール蓋。
イメージ 9
イメージ 3
イメージ 2