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工藤の功績を顕彰し、工藤家農会の事務所であり、工藤が起居した田家(作業小屋)のあった荒屋平・一の森に、工藤の象徴であった長いひげにちなんで「ひげ塚公園」を設立。公園入口の門柱裏に「此のひげ塚公園用地約七反歩は、荒屋平土地改良区創立初代理事長工藤正六氏が御寄付されたものである。昭和48年11月11日」とあります。
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七戸町川去。工藤轍郎(くどうてつろう、嘉永2年-昭和2年)は、私財を投げ打って12km離れた熊ノ沢川から、長いトンネルで荒屋平の台地に潅漑し382haを拓いた七戸開拓の恩人。
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大変な難事業でしたが、大工の中野留八と共同で23年をかけて完成。口癖は「土地は耕した人の手に、そして、熟田を作りあげる」でした。工藤轍郎氏については七戸町史に大変詳しく書かれております。長文ゆえ、より詳しく知りたい方はそちらをお読みください。
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彫刻家小坂圭二作の工藤轍郎銅像が建っています。「この美田を子孫におくる」。
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「照るにつけ降るにつけても思うかな田面の水の程はいかにと」轍郎。
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台座には中野留八氏像(彫刻家小坂圭二作・1971年)。
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碑文…『県営圃場整備事業荒屋平地区は青森県南部にある。太平洋の方を見れば、未耒の一大工業地帯として脚光をあびている小川原湖へ十粁余り。山の方を見れば、国立公園のなかの田代髙原へ十粁余り。圃場整備事業は三百ヘクタール余であるが荒屋平土地改良区の区域は四百ヘクタールを越えている。県営かんぱい事業も実施している。この区域の大部分は第二次世界大戦まで個人の所有地であった。工藤轍郎が明治拾五年開墾予約払い下げを願い出て、同拾七年許可されてから昭和拾七年自作農創設法によって解放されるまで、開田もかんぱいも個人の事業として行われた。昔の轍郎の労苦は今の土地改良区の労苦でもあった。労苦は水にあった。近くに水源がなく、遠く二万数千メートルの彼方からトンネルを貫通し、危険な場所を数多く踏んで水路は流れている。中野留八という大工があった。轍郎の股肱となって水路を建設した。設計者であり、工事監督であり労務者でもあった。曲尺でトンネルを通したというのがこの農場の創世記のサワリである。この中野留八(親方)を助け、穴堰を掘り、モッコをかつぎ田を開いた群像があった。彼等は移住小作人と呼ばれ、開墾地荒屋平に住みついた。農場創世記に忘れられない人々である。本州北端の寒冷地、明治拾七年開墾着手以来八年連続不作、種子さえ取れなかったと記録されている。この窮状を救ったものは渋沢栄一氏から贈られた過燐酸石灰でであった。この肥料を日本で一番最初に使用したものがこの農場であった。故苫米地義三氏の言葉である。個人の私有地であった。この水田を戦後の農地解放以前に自作農創設法で解放したのは轍郎の遺言と石黒忠篤農林大臣のすすめであった。轍郎は始め大農経営方式で水田経営をしようと考えた。出来なかった。小農小作の方式をとらざるを得なかった。水路建設と開田の協力者である小作人へその水田を開放するのが彼の生涯の夢であった。轍郎の子孫たちにその遺言を実行させたのが石黒大臣であった。戦後、この農場の耕作者たちは水路の完全と圃場の近代化を求めて団体営かんぱい事業、団体営客土事業、壱百数十町歩の開田増反、県営かんぱい、県営圃場整備事業を協力、心を一つにして遂行した。県営事業の竣工を記念して、この碑を、工藤轍郎氏と中野留八氏の功績を顕賞して、この銅像と浮彫を建立する。昭和四拾六年拾壱月七日』
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社殿…ってことでいいのかな…鳥居あったし。
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社殿内。
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工藤轍郎肖像(油彩画)が中央に祀られています。上泉華陽画のようです。
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その下には「大源祟行靈神」とあります。
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その横には竜に乗った女神(白龍大神もしくは観音)。祈雨関連かな。
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絵馬等。
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明治期のものが多かったです。
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三心「喜心、老心、大心」道元禅師/典座教訓。
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熊本縣馬耕教師住本久五郎の絵馬(明治11年8月吉日)。七戸町史には「明治14年には肥後型馬耕教師住本久五郎、西洋型馬耕教師三浦源内を招き馬耕伝習所を設け、これにより移住民の、特に青年層にこれを習得せしめている。」とありますが、それより早い紀年銘となっていますね。
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こちらは達筆過ぎて読めず。
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白龍大神。
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社殿裏にひげ塚。
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荒屋平土地改良区換地登記完了記念碑(昭和51年5月10日)。
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工藤農場解放記念碑。
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「地利を開て農場を創め(明治17年)天時を得て熟田を分ち(昭和17年)人和を以て此碑を建つ(昭和31年9月)石黒忠篤書」。
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庚申塔(昭和4年11月)。
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