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義経伝説を伴うかつての観音堂である鹿戸ノ澤神社(鹿戸野沢神社)。
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蝦夷へ逃げた源義経の一行に遅れをとった家臣の亀井重清(亀井六郎・弓の名手)が、義経の後を追う途中にこの地の欅の洞穴に、兜の守りとしていた一寸八分の観音像と秘巻を納めて去ったと伝えます。
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その後、観音像と秘巻は里人によって発見され、堂を建ててそれを祀ったのがこの神社の起こりであると伝えています。
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なお、亀井重清は観音像と秘巻を納めたのち、義経最期の衣川の戦い(文治5年)で、「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦した後に兄の鈴木重家と共に自害しました。
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社殿内。神仏混淆感があります。神社だけど…御本尊千手観音菩薩。御祭神は武甕槌大神なのかな。
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本殿覆屋。
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本殿の横に「鹿戸野沢神社縁起」碑(昭和37年6月30日)がありました。
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『文治五年源義経の家臣亀井六郎重清が守護神として兜の中にありし一寸八分の千手観音菩薩を當槻の木の根本に納め行きしを里人七月十日に発見し之を祠りて堂を建て産神とす藤の観音堂として名勝地と共に霊験顕著な観音菩薩として世の人に知らる(附矢立村郷土誌資料による)』。裏面碑文…『若犾妙眞尼一月六日霊夢により当観世音菩薩を後の世の人々に忘れられない様に願い度いとのことで此の碑を建てる。』※発起人名省略
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やはり神社よりも観音堂といった雰囲気が残りますね。
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唐松大神。
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石灯篭一対(昭和47年旧5月17日)。
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末社。香炉があります。
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金精神にも見えましたが状態はあまり良くなくて不明。
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末社。
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中は荒れていましたが、武甕槌大神の棟札がありました。
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棟札には明治3年午乃秋奉、明治10年9月14日とあり、神仏混淆(神仏分離・復社)に係るものと思われます。由緒にも係りそうなので、ちゃんと見てくればよかった。
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