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御祭神は大己貴命。小町鎮守、旧村社。
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『鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡500余年前)日蓮宗本覚寺門前夷堂橋の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。爾来百余年えびす様の愛称で、福の神・むすびの神として信仰され、遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。えびす様は、皆様おなじみの釣棹を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影をえがいて敬い親しみ、産業福祉の道をお拓きになった。御神業の神として一般に福の神・縁結びの神・商売繁盛の神として信仰する者多く、殊に近年は学びの神・交通安全の神として氏子を始め崇敬し参詣するもの日毎に増し、えびす様と私共の生活が「むすび」の御霊力即ち愛情によって人間は活かされており、そのことに感謝し、その愛情にふれさせて頂く努力をすることによって、明るい生活が出来るのであります。私等の氏神として、永い歴史があって変わらない信仰と崇敬をおうけになっている尊い鎮守様であります。』
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『「新編相模風土記稿」に「夷堂橋は小町と大町との境にあり。…昔は此辺に夷三郎社ありしとなり」とある。此の附近一帯の産土神、地主神として里人深く信仰していたが、永享年中、本覚寺が創建されるに及び、同寺境内に移され山内の鎮守として奉斎された。明治維新の神仏分離により同寺の管理を離れ、現在の社地にあった下部落の鎮守七面大明神に合祀された。また宝戒寺内にあった上部落の鎮守山王権現も合祀して、三社を合わせ社名を蛭子神社と改称した。明治六年村社に列格され、明治七年八月社殿を新築した。本殿はそのとき鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲り受け移築したものである。昭和九年参拝殿を新築。昭和十五年神饌幣帛料供進神社に指定された。』
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社殿のすぐ横には骨川(なめりがわ)。
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手水舎。
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神輿庫。
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皇紀二千六百年記念碑と彫られた石塔。元鳥居かな。
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御神木。
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本殿覆屋。
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社殿屋根の唐獅子瓦。
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社殿扁額。
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唐破風懸魚。
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蟇股。
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木鼻。
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