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絵馬殿。
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絵馬殿…『この建物は、稲荷神社社殿の改築(昭和14年竣工)にあたり、それまでの拝殿を絵馬殿として移築したものです。かつては、市指定文化財の元禄8年福島藩主堀田正虎寄進絵馬「御能之図」をはじめ多くの奉納絵馬がここに飾られ、参詣の人々は休息しながら眺めたといわれます。五間に二間の入母屋造で、正面の中央間は2.9メートル、他の柱間は2メートル、横は各2.45メートルの間柱です。この旧拝殿は、元禄5年(1692)に時の福島藩主堀田正仲が造営したものと思われ、現存する福島の建造物中、最古のものといえます。もっとも、元文5年(1740)に福島藩主板倉勝里が造営遷座したのは本殿のみという説に立ってのことで、解体調査の必要は残ります。いずれにしても福島の古建造物を代表する堂々たるものであることは変わりありません。』
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神輿殿の横に神楽殿。ちなみに神楽殿の後方には稲荷東小路跡があります。かつて稲荷東小路は大人の社交場として料理や酒が安いと評判の小料理屋が建っていましたが、夜になると人が集まり宴や喧嘩、逢い引きなどで混雑し、神様の近くで不道徳な行いはけしからんとの声が上がり小料理屋は駅方面に移転。同じことを繰り返さぬようにと東小路は封鎖。
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神楽殿…『この神楽殿は、明治32年10月氏子からの寄進により建立され、昭和13年の本殿改築に併せて現在の場所に移築されました。面積は25.85㎡あり、入母屋造りの重厚な建物です。四季折々の祭典行事には三方の扉がはずされ御山太々神楽保存会の楽人によって神楽が奉納されます。』
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聖徳太子社。建築職人の守護神。
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太子堂…『このお堂には、聖徳太子の尊像がまつられています。昭和15年に福島市、信夫郡、伊達郡、安達郡下の建築業関係者の結集によって計画され、昭和37年6月21日完成しました。聖徳太子は古代史上、寺院建築に残されている功績をたたえられてか建築関係の職人からの尊崇が厚く、地方にも「たいし講」となって伝承されているようであります。このお堂にも、一市三郡の技術をもつ人びとの信仰心がみごとにあらわされているのであります。』
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神札授与所と倉庫。
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古峯神社鳥居。
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古峯神社。
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古峯神社…『この社は、栃木県鹿沼市の古峯神社のご分神、通称「こぶがはらさま」といい、「火伏せ」防火の神として全国的に厚い信仰をうけています。各地に講中ができ、参詣が続けられています。もと、稲荷神社本殿裏手の境内にまつられていましたが、昭和14年本殿の改築の折、ここに移されました。例祭は毎年2月旧初午の日となっていて、境内では火伏せ祈願の「湯立て神事」が行なわれています。そのうえ、市中防火の祈りとしてこの神事は人びとに知られています。』
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足尾神社。御祭神は猿田彦命。
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石だらけ。
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名前が書かれているものも…って同じ人の名前が多かったです。
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お摩り石…『古くから足尾社の石で患部を摩ると足の病が治ると云う信仰のある"お摩り石"です。柵内の石で患部を摩った後、元に返して拝んで下さい。』
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足尾神社…『この石宮は、もと稲荷神社本殿裏の境内にあって、猿田彦命を祀り、祭日を毎年旧11月1日としていました。昭和14年稲荷神社の改築によって、ここに移されたものであります。足を患っている人や足の弱い人の祈りと共に、旅に出る者が道中安全を祈願して、わらじやぞうりを献納することが多く、足の病気が全快したり、旅行を無事にすました人の感謝もこめられているのであります。東に建てられている足尾神社は駅前丸通(○の中に通)株式会社から移築された社殿であります。また、各地にまつられる足尾神社の中には足王神社と記されるところもあります。』
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こちらが駅前丸通株式会社から移築された足尾神社かな。
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石灯籠が一対あり、中には石祠。
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御神木。
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御神木と古峯神社の間に末社稲荷宮。
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その横にある石碑。一基は達筆過ぎて読めず(笑)
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もう一基は表に高弘法大師と刻まれており、裏には明治2己巳年7月の紀年銘。
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力石。
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力石…『力石は、江戸時代から明治時代にかけて日本全国の村や町で力試しに用いられた。若者たちが体を鍛えたり、集団で力を競い合ったり、神社の祭りの出し物として力試しが盛んに行われた。また「石占い」といい、力石を用いて吉凶や願い事の成就を占ったと言われ、この石に触れると諸願が成就する力をいただけると伝えられている。重量は約63kg。』
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社殿の横へ。
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大黒様を祀る石祠。
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鬼板が落ちてました。
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本殿。
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本殿裏側へ。
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石祠がありました。
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本殿裏。
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社殿の北にあるハルニレの御神木(福島市指定天然記念物)。樹齢200年以上。福島藩主であった板倉勝里が元文5年(1740)稲荷神社社殿を改築した際に植樹したと伝わります。
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福島稲荷神社のニレ(福島市指定天然記念物)…『ニレは、ケヤキと並んで材質がすぐれ昔から神社、仏閣の建築や仏像の彫刻等にも使用された重要なもので、かつては当地方にもケヤキ等と共にニレの大木も数多く生育していたと思われるが、現在はほとんどその大木をみることができません。本樹は、福島稲荷神社の神域にあってよく保護されたために自然状態がたもたれて、枝張りおよび樹高は東北地方まれにみるものとなり得たものです。太さは根回り4メートル、目通り2.75メートル、樹高21メートルで、樹勢もよく、とくに自然木としての樹姿も十分に整っているので、学術研究の資料および福島市の自然を記念するにふさわしいものとして、天然記念物に指定しました。長くこの木の生育を保つために、つぎのことを守ってください。記:一.柵のなかに入り、樹木にふれないこと。一.生育をさまたげるような変更をしないこと。昭和38年12月13日福島市教育委員会』
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拝殿横にある忍山句碑…「野の梅の先には道もなかりけり」忍山翁。
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忍山句碑…『忍山斎藤利助は上町の豪商で、幕末から明治にかけての福島俳壇の指導者でした。その子の自省や孫たちも俳人として知られています。この句碑は、忍山が明治28年12月に83歳で亡くなったあと、門人たちが敬慕の意を表したもので、自省が建立しました。忍山はまた、きわめて信仰深く、神道の学も修め、神道大講義に補せられましたので、この境内に建立されたものです。』
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御即位記念音楽會献木碑。
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社務所。
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社務所前から北裡商店街方面へ。
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長藩世良修蔵靈神碑。
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戊辰戦争長州藩参謀世良修蔵の顕彰墓地です。
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世良修蔵の官修墳墓…『世良修蔵は幕末の長州藩士、官軍の奥羽鎮撫総督府下参謀として会津藩討伐を強硬に主張したことから、会津の救済嘆願を反故にされた仙台藩士らの怒りを買い、慶應4年戊辰歳(1868年)閏4月20日の未明、福島城下(福島市北町)の旅籠金澤屋に宿泊中のところを仙台藩士福島藩士らにより襲撃され、阿武隈川の河原で斬首された。行年34歳。世良は、奥羽諸藩(仙台藩・米沢藩)による会津藩救済嘆願にも聞く耳をもたず、あくまで武力討伐との強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから会津への穏便な措置を阻害する元凶と見なされるようになった。世良暗殺を決定的ならしめた史実は、福島城下の旅籠金澤屋に滞在していた世良より、当時新庄にいた下参謀・大山格之助宛てに閏4月19日に記した密書を、送達の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士が激高し、世良の暗殺実行を決意させたと言われている。その密書には「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」旨が記されていた。世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦が始まる事となった。この官修墳墓は、戊辰戦争の後、福島入りした官軍により慰霊碑として建立された。石碑には世良修蔵のほか、この事件で落命した同じ長州藩士勝見善太郎、松野儀助、従者繁蔵の四柱の名が刻まれている。明治9年(1876年)6月の明治天皇東北御巡幸の際には、随行として福島を訪れた明治政府の参議・木戸孝允が世良を偲んだ事が日記に記されている。建立された場所は、当時は神社の裏側(北側)の国有地にあり、隣接する福島稲荷神社が管理を委任されていた。大正5年に石碑が立て替えられ、戦後、神社の境内地に編入され、境内の北東角(現在地)に移された。この霊神碑を囲む四基の石灯籠のうち、碑の前方に建てられた2つの石灯籠の向かって右側は薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)が明治18年に、左側は、長州藩士・品川弥二郎が明治21年に寄進・建立した。黒田と品川は元々奥羽鎮撫総督府の参謀に就任したが、その後その任を辞退し、代わって世良が参謀として東北に赴任することになったとの因縁がある。後方の2つの石灯籠は、右が橘正風、左が橘正郎が建立したと伝えられている。この2人は世良が殺害された後、同じく仙台藩士によって斬られた長州藩士・野村十郎の兄弟にあたり世良と同じ奇兵隊の出身者である。また、霊神碑うしろの歌碑は橘正風(山城屋和助)が建立したものと伝えられ、弟を亡くした兄の気持ちが偲ばれる。「しのぶれば その五月雨の夕まぐれ なみだの川のなみならぬかな」。現在に至るまで春秋の彼岸には福島稲荷神社の神職により慰霊祭が厳粛に執り行われているほか、折々に花を手向ける人は絶えず、世良の出身地山口県から訪れる人々は、東北の恨みを一身に受けて敵地で没した世良に対し、地元の人々によって今に至るまで手厚く慰霊が続けられていることを知り、一様に感銘を覚えるという。世良の墓は、この地の他に宮城県白石市陣場山と、山口県周防大島町椋野に招魂碑があるほか、御霊は当地信夫山の福島縣護國神社に戊辰の役戦没者768柱の1柱として祀られている。』
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橘正風(山城屋和助)歌碑。
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