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錦神社より東北東3km程離れた場所に鎮座。
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社殿。
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向拝。
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社殿内。
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小さいながらも歴史深い神社でございます。
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西木戸神社の由来…『西木戸神社は、奥州藤原家四代伊達次郎泰衡の夫人を祭神とし、八百年間地元の奉仕が続けられている。文治5年(1189)夫人は平泉を逃れて贄の柵を目指す泰衡のあとを追い、比内町八木橋のこの地ですでに四日前泰衡が譜代の郎従河田次郎の変心によって討たれたと聞かされ、従者由兵衛に後事を託して生害を遂げた。里人はその心根をあわれんで祠を建立し五輪の塔をおさめて霊魂を慰めたのが神社の始まりである。源頼朝の武家政治は、泰衡の死により全国統一を完成した事実は、日本の歴史に特筆されるべきだが、その後夫人の殉死を学者、文人、墨客、俳優ら多数の著名人が訪れ、今もなお悲涙をそそいでいる。神社の名称はこの一帯が泰衡の異母兄西木戸太郎国衡の采邑地だったからで、五輪台の里名は、五輪の塔の安置によるという。五輪台の社殿と境内は、里人と有志の寄進に成り八百年の長い歳月、休むことなく続いた情のこまやかさをしのばせている。比内町教育委員会』
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西木戸神社(大館市比内町八木橋字五輪台127)…『西木戸神社は、八木橋五輪台の高台にあり、平泉藤原泰衡氏の夫人を祀っている。文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐軍に敗れた平泉藤原氏4代泰衡公は辛うじて逃れ、比内の地に住む家臣、河田次郎を頼ったところ、河田はこれに背いて泰衡を討ち、その首を源頼朝に差し出したという。藤原泰衡憤死の地は、二井田といわれている。地元の言い伝えによると、藤原泰衡夫人は敗戦の夫の安否を質すため、従僕の由兵衛を連れて後を追い、この地(五輪台)にたどり着いたところで泰衡の死を知った。嘆き悲しんだ末に、夫人は3人の子を道連れに自害して果てる。由兵衛は、夫人たちの遺骸を手厚く葬り、頭を丸めて法師となって霊を弔ったが、やがて全てが終わると自刃して果てた。里の人たちはこれを憐れんで五輪堂を祀り、それが今の西木戸神社となっている。※西木戸神社の祭典は、旧暦の9月7日に行なわれている。』
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句碑(昭和46年秋)。『泰衡夫人を祀るとありければ 初子』『里人の情あたたかし露の塚』。
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