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二井田字上出向鎮座。
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錦神社…『奥州平泉(岩手県)の藤原氏四代泰衡は、源頼朝に追われ、エゾ地に逃れようとして、にえの柵、現二井田に家臣河田次郎を頼って立ち寄ったところを、その裏切りにあって殺された(文治5年(1189-9月3日)。地元の人々は、そのことを次のように語り伝えている。河田次郎は、「泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝の恩賞を」と考え、主人殺しの罪にならずに泰衡を討つ計画を練った。旧9月3日の夜、次郎は多くの家来を使って、頼朝の大軍が攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して切腹するように仕向けた。この計画は成功し、次郎は泰衡の首をはねた。その後、首のない泰衡の死体は、里人によって錦の直垂に大事に包まれて埋葬されたという。この墓が「にしき様」と呼ばれて当神社となり、毎年旧9月3日にお祭が催されている。ここから南西約3kmの五輪台(比内町西館)には、泰衡のあとを慕い、長い旅を続けてきた奥方と、忠僕にまつわる話が伝わり、その遺跡は西木戸神社として祭られている。』
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藤原氏四代泰衡没後八百周年之碑。
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菅江真澄句碑。
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『たのみつるその木のもとも吹風のあらきにつゆの身やけたれけむ』
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菅江真澄紀行の地…『江戸時代の紀行家菅江真澄(1754-1829)がこの地を訪れたのは、今から186年前の享和3年(1803年)旧暦6月2日、49才のときでした。真澄はその時の様子を「贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)」という紀行文に書き残し、この錦神社にまつわる村人の心やさしいはからいと、泰衡の命日にちなむ行事を紹介しています。東北の支配者藤原氏四代目泰衡が、頼みにしていた旧臣に裏切られ、露のように消えてしまった歴史的事件を偲んで、哀悼をこめて詠んだのがこの歌碑の短歌です。平成元年7月22日建立。大館市立南中学校PTA』
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社殿。
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社殿内。
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長谷部藤衛門という家の庭に五輪石が砕けて転がってあったのを、残っていた3つの石を重ねて堂を作り、それを納めたといいます。ちなみに右の石塔には文久元年の紀年銘が見えました。
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また、中央の石の隣りには大小の白い馬がおりました。
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社殿内には色々ありました。
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与楽(よらく)…『「抜苦与楽 普皆平等」。この句は、天治3年(1126)3月24日、中尊寺落慶供養に際して、藤原清衡公が読み上げた「中尊寺建立供養願文」の鐘楼の段にあります。即ち、鐘楼の大きな鐘の音が大地を動かすごとに、あまねく平等に、人々の苦しみを取り除き、楽しみを与え、そして、敵も味方もなく、故なくして死んだ者の霊魂を浄土に導きたい、と述べられています。清衡公の平和と幸福の願いがあふれた句で、仏教の大慈大悲の心に立脚した中尊寺創建の意を表しています。』
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贄の柵…『誰刈るともなく生ひ茂る葭原は、秋風の蕭條と吹き荒む中に、露にぬれて靡き伏してゐるのであった。其の中に、主を賣らんとする大逆無道の行文に頭を掻かれた藤原泰衡の骸が半ば朽ちてゐたのが弱い秋の日に照らされて振向く者もなく捨てられてあった。人と生れ紅い血潮の通ひ流れ■ゐる者であったならば誰でも其の無惨な有様に袖袂をしぼる事であらう。純朴な村人達は皆涙と共に集んで来て、泰衡の胴體と、臨終の際に死を飾るために身につけて居った錦の直垂とを、彼が永眠の地として選んだ場所に埋めて懇ろに冥福を祈った。後年に及んで其處にささやかながら一宇の御堂を建立して御神とするのものをと尋ねたが何も残』。贄柵と呼ばれている城跡は平泉藤原氏の家臣である河田次郎の居城。藤原四代泰衡が源頼朝に追われ贄の柵の河田次郎を頼って身をよせるも裏切りにあって討たれます。その後、首のない泰衡の屍は里人によって錦の直垂に大事に包まれて埋葬。この墓が「にしき様」と呼ばれて神社となり、錦神社となって祀られ毎年旧9月3日にお祭りが催されます。一方で河田次郎は泰衡の首を頼朝に届けましたが、頼朝は譜第の恩を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられました。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納めらました。
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贄の柵跡までの地図がありました。錦神社から橋を渡り、最初の十字路(川沿いの砂利道を除く)を右折し、少し進むと右手に案内板あるのでそこを右折(郵便局より手前)。館町内会館隣り。
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池。
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