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上北郡六戸町犬落瀬下久保。七百の馬頭観世音神社の1kmほど西方の鬱蒼とした森の中に鎮座。
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鳥居の額束には國一蒼前開運神社(奉納昭和54年10月吉日・下田重次郎)とありました。下田重次郎氏は当社の管理者。
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南部藩領国随一の名馬「邦一」を祀った神社で、かつては1間四方の小祠でした。昭和28年9月に改築されて2間四方の切妻屋根の社殿となりました。邦一(南部藩領国内随一の名馬という意味で命名)は六ヶ所村倉内に鎮座する七鞍蒼前(7つの鞍を持つほどの巨大な馬を祀った馬護神)の血を引く栗毛の種馬で、3歳の春にして既に5歳馬に勝る体格だったそうです。近在18ヶ村の種馬に君臨し、放牧の際に邦一のいななきを聞いただけで他の種馬はその眷族を引き連れて逃げ去るほどでした。この名声は当時の南部藩主の取り入るところとなり、「邦一の名馬である」との言葉を送られ、「邦一蒼前」と呼ばれるようになりました。しかし病気により僅か7歳でこの世を去りました。村人たちは邦一の死を悼み、馬の墓場であった現在地に御堂を建立し、邦一蒼前と神社名を付けました。昭和46年に下田家で母屋を建てる際、土中から多くの馬の骨が出土しており、また、神社改修の際には馬の墓石と思われる石が出土しています。この石は現在神社の土台として使用されています。昭和になって軍備拡張・戦力増強を目的に馬産が奨励されるようになったことから、下田松太郎・附田千代吉・下田寅蔵らが発起人となり、附田督三・下田福太郎・附田菊次郎らの協力を得て、七百の馬産の成功と発展を祈願し、南部藩の「邦一」から日本国の「國一」へと改称し、社殿新築計画が進められました。しかし戦前・戦中の動乱期に建築するのは難しく、昭和28年になってようやく社殿が完成しています。戦後、馬の時代が終わってからは交通安全の神様として信仰されています。毎年12月27日には、地域の人々が集まって縁日を開いていましたが、昭和60年、崇敬者の数が減少したことから、下田家の母屋で行うようになりました。
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社殿前にも額束があります。「國一御蒼前」とあり、紀年銘などは鳥居にあったものと同じです。
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社殿内。
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高さ10cmほどの陶製白馬像が祀られています。こちらは2代目で、初代の御神体は社殿新築後に盗難にあったそうです。
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「六戸町産馬振興會主催第一回貳歳品評會審査壹等賞」の賞状がありました。日付は昭和6年5月15日。
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