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昔、廻船問屋の田中津右左門という豪族がおり、常に敬神厚く、町の発展を祈願するために屋敷に内神として、伊勢神宮内宮の御魂分けを受けて祀りましたが栄枯盛免し、田中氏は遂に一家断絶。南部藩の都合により社地を転々とした後、元禄2年に市中氏子中にて受け継ぎ、野辺地代官所に近い現在地に改めて天照皇大神の分霊を勧請と伝えます。
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藩主御巡幸の節は参拝し社運も隆盛し野辺地代官も庇護。旧社殿は天保8年に建替。明治6年4月13日村社に列せられ町氏子にて尊崇。明治23年5月に野辺地全町大火により宝物・貴重品・工作物等焼失するも明治25年再建。昭和50年再度全焼。昭和52年再建。平成13年修復。
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天保年間に修験の金剛院が別当として祭祀。金剛院は新郷村戸来の多門院を通じて本山派聖護院から院号を授与され、本家筋は横浜八幡宮の鈴木家(大光院)。神仏分離により明治2年に神主となり、神明宮となります。
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『御祭神:天照皇大神。例祭:8月16日。旧社格:村社。江戸時代初期、当町の大豪商家田中津右衛門が、邸内に、伊勢神宮の御霊分を斎き祀り勧請せしと伝えられている。元禄2己巳年(1689)に社地及社殿を寄進、市中の氏子が受け継ぎ現在の処に勧請鎮座したる由。元禄年間の社殿は、享保3年の火災に罹り縁起棟名札等消失せり、延享3年再建、天保8年建替、明治23年罹災、同25年再建、昭和50年失火全焼、同53年再建、平成13年修築が現在の社殿である。我日本人の総氏神、総祖先に存す、伊勢神宮、当神社も、しんめいさまと崇敬されている。平成25年水無月吉日。第62回式年遷宮神明宮奉賛会』
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手水舎。
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本殿覆屋。
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舘平稲荷大明神。
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元文5年に野辺地代官所内に建立。明治初年に廃社とあり、これは神仏分離によるものでしょうけど復社しておりました。
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