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鳴子館坂の下から歩いてじっくりと紹介したかったのですが結構な勢いでスコールが!!…ってことで坂マニアとしてはとても残念なことですが車で向かいました。ちなみに鳴子舘は平安時代の住居や堀の跡などが残されており(坊ノ塚遺跡)、その急な坂道は鳴子坂もしくは鳴子館坂と呼ばれていました。坂下は野辺地代官所の代官や町役人の検断が幕府や盛岡藩の役人を出迎えた場所。
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鳴子館坂を上って行くと橋の手前に案内板がありました。
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鳴子坂橋の名称由来…『今をさかのぼること約1000年前、平安から鎌倉時代にかけてこの付近には、先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。この地はまた、旧奥州街道上の野辺地の入口にあたっており、ここの坂を鳴子館坂と呼んでいた。享和年間に書かれた「東案内記」には、「長者久保を過ぎ、段々坂を下り行けば、程なく鳴子館の大坂あり。これを鳴子館坂という。下り詰めて小坂を少し上りまた下り詰めれば、右に蒼前の社あり、…」と記述がある。また、藩制時代は、幕府や藩の要人が当地を訪れたときには、まちの主だった人たちが、この付近まで送迎に出たことが記録されている。このような故事にちなみ、「鳴子」を、ふるさとの歴史として後世に伝えることもふくめて、この橋を鳴子坂橋と命名したものである。平成3年3月野辺地町』
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鳴子坂橋。
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平成2年12月竣工。
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橋を渡ってしばらく進むと一里塚が見えてきます。
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大日本東山道陸奥州駅路図(寛政12年)作・文化4年写、青森県立図書館蔵。
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一里塚(県史跡・土木学会選奨土木遺産)…『一里塚は、街道の一里(約4km)ごとに土を盛り、木を植えた道しるべです。旅人にとって道のりを知る目安となり、木陰で休息する場ともなっていました。全国的に整備されるようになったのは1604年(慶長9年)以降のことです。江戸時代の奥州街道(奥州道中)は、七戸町中野で二手に分かれ野辺地町下町で合流していました。中野から天間館・石文・夫雑原・長者久保を通過して野辺地にいたる街道は「本道」「下道」などと呼ばれ、中野から坪・柳平・尾山頭・石坂を通過して野辺地にいたる街道は「坪道」「上道」などと呼ばれていました。ここ坊ノ塚の一里塚は長者久保と野辺地の間にあり、奥州街道に残されている最北の一里塚です。底面の直径は約9mで、塚と塚との間には街道のあとが残されています。街道を北上した旅人は、この一里塚を過ぎるとまもなく野辺地湾を望みながら鳴子館坂を下りました。平成23年7月21日野辺地町教育委員会』
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一里塚。
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奥州街道跡。
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思っていたよりきちんと街道跡が残っていますね。江戸時代にタイムスリップしたみたいで、とてもいい雰囲気。
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歩いてみたいけど…写真じゃわからないかも知れないけど…そうなんです…スコール中なんです(笑)
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