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内童子字観音に鎮座。
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観音という地名は神仏分離前の当神社に関係しているのでしょうか。そういえば当神社から少し離れた場所に立派な祠もありましたが、きちんと見ませんでした…テヘペロ☆(・ω<)…(古)
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御祭神は木花咲耶姫命。所謂富士山の御祭神を祀っていますが、『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)によりますと、「吉野の水分神-御子守神(女神)を祀ることからきたものであろう。」と書かれています。
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寛永4年4月創建(造主内童子弥兵衛、庄エ門七右エ門外村中)。
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明治6年3月村社。昭和43年に明治100年記念事業として社殿の修改築。この際に拝殿に幣殿併設、12月15日落成奉告祭執行。同58年8月子守神社社殿新築落成奉告祭執行(宮司佐々木高精、大工頭領佐々木忠一)。
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石灯篭一対(昭和15年5月)。
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いかにも鎮守の杜といった感じで巨木に囲まれています。
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変わった形をした引ノ越山(266.7m)です。山体崩壊でもあったかのように、半面だけ木々がなく岩肌となっている不思議な山です。頂上に登ったら相当怖そう!!でも登る人なんていないだろうな…って思いつつ、ネットで少し調べてみたら…登る人いるんですね。そこに山があるんだから仕方ないよね!!(笑)
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で、web東奥日報の「あおもり110山」というページを読んで、なぜ半分だけ岩肌なのかもわかりました。
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引ノ越山は雨乞いやお山参詣を行うなど、昔から内童子地区のシンボル的存在で、とても形の良い山だったそうです。その頃から一部岩肌が露出しており、そこに着目した採石業者が昭和37年から採石を初め、昭和40年以降には更に2社が採石を始めたそうです。当時は内童子の半分以上の人が生活をかけて採石会社に勤めており、反対の声は上がらなかったとのこと。石は安山岩で主に国鉄が使ったそう。当時は特に採石方法のルールが確立されていなかったため、西斜面を三方から次々と崩していったそうで、そのうち下から崩すのは困難となり、山頂から崩していくとの声が上がりましたが、山頂を崩すことだけは町が反対し、山頂から東側の町有地は業者に売らなかったそうです。採石方法の規制が厳しくなり生産が落ち込んだ頃に第1次オイルショックが始まり、昭和50年に2社が撤退、残りの1社も昭和55年に撤退。結局3社とも倒産したため緑化復元の義務を負うべき事業者が無くなり、当時のままの姿を今に残しているそうです。
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このような経緯があって頂上から東半分は緑に包まれた山で、西側は断崖絶壁の岩肌となっているわけですね。経緯を知らなければ本当に不思議な山です。なお、菅江真澄は福館を訪れた際に『津軽の奥』に次のように記しています。「このあたりから遠く、また近くを眺める景色は、いいようもなくおもしろい。南に、ひきのこしが岳(引ノ越山)が三角にそびえて、富士の姿のように霞み、鹿子まだらに雪が残っている吾妻が岳(東岳)は西に遠く、こちらからは外山にかくれて全貌を見ることができない。」。また、『津軽のつと』では「ことし(寛政10年)も、はやくも暮れようとしている。みちのおく津軽路に、雪中の生活を、ことしも送って、ここは平内のほとり、童子という山里の引越山のふもとである。むかしは錦木の里といったところだと、もっぱら人がいうあたりも、ここから近い。除夜になると…(以下省略)」とあり、菅江真澄が年越しをした村であることがわかります。なお、随筆集(筆のまにまに)に童子村の東方に槻の大木が2本あり、これを「にしきぎ」というとあります。
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