イメージ 1
岩谷不動尊・大山祇大神を通り過ぎて、沢田神明宮の前を通って屏風岩(高さ100余りの岸壁が幅600mにわたり屹立するとともに、学術的にも価値の高い北地系の植物が生育し、すぐれた自然環境と景観を形成。)を横目に進みますと相馬ダムに着きます。
イメージ 2
イメージ 3
相馬ダム周辺にはみずべゾーン(親水広場・屏風岩展望所)、いこいゾーン(ダム展望所・岩木山展望所)、ふれあいゾーン(四阿、ふれあいの広場、遊歩道)があります。
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6
相馬ダムの奥まで進み、ダム湖を渡るとそこから先は急激に道が悪くなります。
イメージ 7
ダート道をひたすら走り続けると舟打鉱山跡に到着します。案内看板や電波もないので結構不安になります。
イメージ 8
地図にも目印はありませんが、鴫ケ沢山のやや西、天狗森の東の渓流沿いに位置します。作沢林道。作沢川上流の萱萢地区。尾太鉱山跡地(排水処理や鉱害対策工事が継続されており立入禁止・撮影禁止)も今はほとんど何も残されていませんが、こちらもその痕跡は僅かです。
イメージ 9
江戸時代末期、安政年間に相馬村相馬の大黒谷万右衛門がこの萱萢の地を開拓。山畑を作っていたところ、鍬で切られた白光の石を発見。その石を持って村の庄屋中沢文作に届けました。庄屋文作は秋田の鉱山師に依頼し、秋田の鉱夫の指導と協力で掘ったところ、鉛・亜鉛・銅などが入り混じった鉱山であると判明。それから2年ほど掘り続けましたが、明治初期に中村有常という人に山の権利を売り渡し、その後は中村の山として鉱石が掘り出されました。明治41年には弘前の鈴木という人物に権利が移り、明治44年には東京の慈光寺泰仲(京都の公卿出身)が採鉱権を獲得して雷鉱山と命名。慈光寺泰仲は5年ほどでやめて、その後も4人の鉱業権者の手を経て、鉱石は次々と掘り出され、かますに詰められて牛馬によって弘前に運搬されました。昭和4年に日本曹達の所有となり、同8年頃には本格的な採掘に取り掛かりました。
イメージ 10
昭和10年に舟打部落を形成。同13年には相馬第二尋常小学校舟打分教場が発足。同年2月に鉱山従業員用施設を仮校舎としていた状態から新校舎を建設。同15年には独立して舟打鉱山尋常小学校と改称。同16年1月には新校舎落成式を挙行。校舎の近くには朝鮮長屋、診療所などもあったそう。同17年、18年頃は大東亜戦争のため増産を強いられ、全国の若人が奉国隊の名のもとに動員されて昼夜の別なく増産に励みました。同22年4月に新制中学校として産声をあげ、4年経った同26年1月1日にようやく舟打鉱山中学校を新築。
イメージ 11
昭和20年、終戦によって従業員数は減りましたが、昭和30年頃でも190世帯、約800人が生活していたそう。当時は日産70tの選鉱ができる選鉱場もあり、年産鉛1010t、亜鉛1964t、他にも銅や硫化鉄鉱が生産されていました。従業員は13都道府県から集まり、それぞれに言葉の違いがあったそう。この場所は山菜、栗、クルミ、キノコなどが豊富で、作沢川の畔には楽しい生活があったようです。しかしながら昭和36年に貿易自由化の波が国内の鉱業所を襲い、舟打鉱山も同37年9月に遂に閉山となり、27年という短い生涯を閉じました。最盛期には村の税収は舟打鉱山だけで約300万円という情況で、小中学校も児童数200名、教員数12名がいましたが、小中学校も閉山した翌年、昭和38年8月31日に閉校。当時の諸施設、事務所、住宅、校舎、土地等は競争入札で処分されました。これらの多くは本村の人たちが落札し、解体して運搬し去っていきました。現在の跡地には植林され、その木も生育し、当時の面影は偲び難い状態です。昭和57年以降、相馬村では跡地の一部を借用してキャンプ場を設営し、活用を図りましたが、そのキャンプ場も今は無いようです。
イメージ 12
『江戸時代の末期安政年間(1854-1859)相馬村の万右衛門によって白光の石が見つけられ、これが鉛、亜鉛、銅などの入りまじった鉱石であることがわかり、採鉱をはじめたのが舟打の鉱山の始めである。その後、山の権利は幾多の人々に次々と移ったが、本格的な採掘が昭和4年に日本曹達によって行なわれ、昭和10年には舟打部落を形成し、最盛期には約一千人の住民がこの谷に住み活気にあふれていた。第二次世界大戦中は増産につぐ増産に昼夜の別なく増産に励んだ。終戦と共に従業員の数も減ったとはいうものの、昭和30年頃でも日産70トンに達していた。然し、昭和36年の貿易自由化の波には抗し得ず、昭和37年9月閉山のやむなきに至った。』
イメージ 13
案内板の横には国有林分収造林標識があります。文字はほとんど消えていて読めません。
イメージ 14
舟打鉱山無縁佛。
イメージ 15
かなり状態はいいです。
イメージ 16
横には石。
イメージ 17
裏面には「昭和61年8月成田兼三郎」とあります。
イメージ 18
ちなみにお供えされていたカルピスウォーターの賞味期限が2016年10月29日でした。当時住んでいた人達が今も通っているのかな。
イメージ 19
舟打鉱山友之会碑。
イメージ 20
裏面には「平成7年10月15日 中郡相馬村字大助 成田兼三郎」とあります。舟打鉱山無縁佛碑の碑文と同じ方ですね。
イメージ 21
周囲の木には鳥の巣箱がいくつか設置されていました。
イメージ 22
何かがある雰囲気。
イメージ 23
僅かに道もありましたので行ってみました。
イメージ 24
鳥獣供養之塔がありました。
イメージ 25
「平成5年5月10■日相馬村ハンタークラブ建立」。
イメージ 26
その横には狛犬が一対。かつての神社跡ですね。
イメージ 27
イメージ 28
阿型は台座から降りているものの、状態としてはとても良いです。
イメージ 29
イメージ 30
台座。
イメージ 31
イメージ 32
手水石。
イメージ 33
御神木。
イメージ 34
茂みの中に小祠があります。
イメージ 35
イメージ 36
サッポロドラフトワン他、様々なドリンクがお供えされていました。
イメージ 37
狐が一対と中央に山の神。
イメージ 38
その後ろには大きくて立派な山の神。
イメージ 39
サッポロドラフトワン3本分くらいの大きさがあります。
イメージ 40
残念ながら右手は損傷しており、何を持っていたのかはわかりません。
イメージ 41
神社を後にして…
イメージ 42
近くを散策するも綺麗に整地されており、痕跡はわかりません。実は大きなカモシカに遭遇しており、次は大きな熊さんが出てきそうな雰囲気に包まれているのでほどほどに散策。
イメージ 43
人工的に木材が並べられている小さな渓流。
イメージ 44
イメージ 45
自然の石とは思えないような形の石もいくつか。
イメージ 46
イメージ 47
渓流沿いに少しだけ上ると道が二手に分かれていましたが、やはり熊さんに遭いそうなので引き返しました。携帯の電波がないと行動範囲が狭くなりますね。
イメージ 48
イメージ 49
最初の案内板の位置は三叉路となっており、右の道を進めばこのような感じ。
イメージ 50
かなり綺麗に整地され、木材置場となっています。相馬村史などで見た学校の写真はこの場所にあったのかな。まったく痕跡がなくわかりません。
イメージ 51
一方、左は作沢林道。舟打鉱山から更に6kmほど奥の山頂(陣馬岳)には陣馬沼という小さいひょうたんの形をした沼と小祠があり、竜神には藍色の衣を着せてあるといいます。雨乞いの際には全村あげて村長を先頭に陣馬沼へ向かい、沼を竿でかき回すと雨が降ったといいます。興味はありますが、さすがにこれ以上山奥に行く気がしません。昔の人たちは凄いです。現代なら完全装備の登山です。
イメージ 52
少しだけ歩いてみました。
イメージ 53
右側は綺麗に石が積まれています。
イメージ 54
イメージ 55
イメージ 56
左は渓流。滝のような轟音が聞こえていましたが砂防ダムでした。
イメージ 57
イメージ 3
イメージ 2