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里見村の地名の由来は開発者窪田家の先祖が源義家の曽孫義俊の後裔で、義俊が大新田太郎里見と号し、また、その後数代が安房上総を領し里見太郎と称したことによるものと考えられます。青森町の窪田三郎右衛門が、元禄年間の大凶作で荒廃していた青森平野南部の水田復興を計画し、宝永元年に藩の許可を得て荒川(堤川)から取水する里見新堰を掘り、浦町・堤・勝田・浜田・荒川・沖館・大野の7ヶ村にわたる105町5反余の里見新田を完成させ、後にこの功により知行30石を賜った当村はこの里見新田の開発の後、元文年間に窪田家が開墾した新田といいます。なお、明治初年の国誌には村名が見えず、それ以前に廃村状況となり、浦町村に吸収されたと考えられます。
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さて、里見村は浦町組に属しており、神社として浦町組里見村稲荷神社がありました。草創は不詳。元文2年(1737)村中にて再建(窪田三郎右衛門が新田開発成就を祈願し再建)。
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明治初年には一時浦町村神明宮に合祀するも後に復社。
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棟札(寛政7年・文化元年・文化4年・天保6年)があるそうです。同社の別社に遍照堂があり、浦町・横内両組で五穀成就の御守社を奉納したといいますが、明治初年神仏分離に際し大島神社に改めることを願い出るも許可されず廃堂となりました。
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また、安政2年神社書上帳によりますと、末社として文政11年勧請の弘法大師堂が見えますが、これは今述べた遍照堂と同じものと思われます。
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