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岩手県遠野市小友町。遠野七観音(山谷観音・松崎観音・平倉観音・鞍迫観音・宮守観音・山崎観音・笹谷観音)の第一番札所。十一面観音像を安置。
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入口付近に石塔がいっぱい。馬頭観世音や金毘羅大権現等の石塔。
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駐車場に車を置いて歩いて行きます。
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「おく山や はちすか沢の観世音 仏の誓い あらたなりけり」
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山谷観音堂(岩手県指定有形文化財・平成6年9月16日指定)…『山谷観音は、江戸時代以前には大慈山長福寺といい、斎衡元年(854)に慈覚大師が草創したのが始まりという。文和3年(1354)再興、応永9年(1402)再興、文禄2年(1593)再興、元禄3年(1690)再興、翌元禄4年1月17日焼失、元禄12年(1699)遠野城主八戸利戡を大旦那として再建した。方三間、宝形造、床敷、四方に縁を廻らす。軒は一軒繁垂木、大斗肘木。平面構成は、母屋部と廂部から成り、母屋部に4本の円柱、廂部の側柱12本は全て八角形断面の柱。母屋部はそのまま内陣とならず、ここでは下陣となり、奥の廂の位置に内陣を設ける。架構面では、母屋部に建つ4本の円柱を中心に虹梁、頭貫、台輪、天井桁を組み、円柱から廂の側柱に渡した8本の繋ぎ虹梁によって母屋と廂を緊結する。意匠面は、母屋部に棹縁天井を張り、廂部は内陣を除き全て垂木、隅木を現した化粧屋根裏天井。内外とも内法高以上の構成部材は原則として色彩施す。外部の軒桁や頭貫の木鼻、内部の頭貫台輪、紅梁、天井桁、蟇股、実肘木などに施された若葉文、木瓜文などの絵様、刳形など、表現手法は素朴、簡素であるが、様式的には江戸初期に通ずるものがあり古式である。また、極彩色で描かれた内陣小壁絵、内陣扉左右小脇羽目絵などは元禄期の華麗さを表現している。江戸時代前期最末期の三間四面堂でありながら阿弥陀堂に代表される古代的「一間四面堂」ともいうべき形状をなお留め、機能的には母屋を内陣とし、廂を下陣とする形から、奥の廂の位置に内陣を設け、下陣部を前面に広くとる、新しい中世的ないし近世的空間への移行も進行している。古代から中世を通じて何回かの再建を経験してきた方三間堂の変容過程と、中世堂の特徴も伝える遺構として貴重な事例である。平面的、架構的、意匠的にみて、古式かつ堅実なものがあり、本県の仏堂建築史上貴重なものである。』
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山谷観音経筒(遠野市指定有形文化財・昭和32年7月16日指定)…『総高12.0cm、径5.2cm。金銅製経筒。三面に次の彫刻がある。一.十羅刹女 奥州遠野無安。二.(如来坐像)奉納経六十六部。三.三十番神 天正12年今月日(1584)。遠野地方の経塚は、9割までは1字1石によるものですが、その中にあってこの地方唯一の経筒です。明治元年、観音堂西側の経塚から発掘されました。』
鰐口(遠野市指定有形文化財・平成2年8月10日指定)…『面経53.5cm。最大幅67cm。材質鋳銅製。元禄4年(1691)正月、前年再興したばかりの観音堂が火災で焼失した為その年の11月に、再興に向けて鮎貝平兵衛吉勝が奉納したもので、作者は盛岡御鋳物師2代目小泉仁左衛門です。銘文に、火災で焼融した応永9年(1402)比丘良賢奉納の鰐口と寛文年中(1661-73)山谷金右衛門娘奉納鰐口を鋳込んだことや、文和3年(1354)再興されたことが記されていて、山谷観音の歴史資料として重要なものであり、鋳上がりや姿形もよく、江戸時代前期の鰐口としても代表的なものです。現在の観音堂は元禄12年に再建されたものです。』
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拝殿。
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結構大きいです。
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熊野三社権現・秋葉山大権現・西國三十三社の碑。
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御神木。
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御神木の麓にあった碑。十一面観世音。
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倒れてた石碑…愛宕大権現。
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金毘羅大神。
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こちらも金毘羅さんかな。
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原型を留めていない上に(もしくは自然石を利用したものか)コケが生えてて何なのかわからなかった石ですが、よく見ると狛犬のようにも見えます。
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違うかも知れませんが。狛石ってことで。
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手水鉢。
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隣の建物へ。
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八幡神社でした。
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本殿。
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