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大異山高徳院清浄泉寺。さすがに人が多いですね。ボカシ切れません(笑)
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山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭に内部に安置された一対の仁王像と共に他所より移築されたものと伝えられています。
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仁王像。
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高徳院境内…『境内にある文学碑について紹介します。○与謝野晶子歌碑…「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」晶子。与謝野晶子、歌人、1878年堺市生、1942年没。新詩社の社友となり「明星」で活躍。「みだれ髪」の奔放自由な歌風は一世を風靡した。○星野立子句碑…「大佛の冬日は山に移りけり」立子。星野立子、俳人、1903年東京生、1984年年没。高浜虚子の次女。父の薫陶を受け「ホトトギス」で活躍。俳誌「玉藻」を主宰。俳誌『玉藻』を主宰。○金子薫園歌碑…「寺々のかねのさやけく鳴りひびきかまくら山に秋かぜのみつ」。金子薫園、歌人、1876年東京生、1951年没。落合直文の門に入り、和歌革新運動に参加。○飯室謙斉句碑…「春の雨かまくらのの名も和らぎて」。飯室謙斉、医師、1883年山梨県生、1928年没。高浜虚子から俳句を学んだ。○吉屋信子句碑(高徳院墓地)…「秋燈下机の上の幾山河」信子。吉屋信子、小説家、1896年新潟県生、1973年没。「海の極みまで」で文壇的地位を確立。代表作に「花物語」「徳川の夫人たち」がある。詳細は鎌倉文学館にお尋ねください。平成6年12月』
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『名稱:浄土宗。宗祖:法然上人〔源空〕(西暦1133年-西暦1212年)。開宗:承安5年(西暦1175年)。ご本尊:阿彌陀佛〔無量壽佛〕。稱名:南無阿弥陀佛。教え:阿彌陀佛を深く信じてひたすら南無阿彌陀佛と稱えるだけで、どんなに罪深い人でも必ず救われて、明るい毎日を送り浄土に生まれることができる教えです。お經:お釋迦さまが説かれた無量壽經、觀無量壽經、阿彌陀經の三部經をよりどころとします。』
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阿阿の狛犬一対。
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由来記『1979.4月中華民国台中西北扶輪社(ロータリークラブ)の一行が鎌倉西ロータリークラブとの友好倶楽部結縁を記念して当地に来訪された際、大佛の慈愛と尊嚴さにいたく感銘を受け高徳院大佛殿に台湾特産の白色大理石に依る呵、吽狛犬一対寄贈の意向を表明された。1980.5月完成し開眼供養除幕式を行った。大佛殿護持佛心の絆を以って国際親善、両クラブ友好の象徴として末永く鎮子することを祈念する。』
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高徳院境内図。
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手水舎。
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石燈籠。
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鎌倉大佛。
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大仏前の青銅灯篭一対。
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大仏前の蓮常花(三世の蓮)一対。三世の蓮はそえぞれ蓮の実(過去・前世)、花(現在・現世)、蕾(未来・後世)を表します。
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大仏正面の阿弥陀三尊香炉。
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建造当初は金色に輝いていたと推定されている鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像総高13.35m、仏身高11.312m・重量121t)。金箔とも鍍金とも言われています。
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特に右頬に金色が強く見られます。2016年調査で色々と判明すると聞いていたけど、結局どうだったのかな。まだ未発表?顔だけが金色だった可能性があるっていうニュースもやっていましたよね。
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国宝鎌倉大佛因由…『この大佛像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し、6年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原形作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右エ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶安2年(1369)とに大風で倒れ、その都度復興したが、明應7年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35年、36年(1960-61)の修理では、前傾している頭部を支える頚部の力を強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。』
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面長2.35m、螺髪(656個・高さ0.18m×径0.24m)、肉髻珠(0.18×0.48)。
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真青眼相(1.00m、瞳は0.27m)、白毫(高0.15m×径0.18m)、眉長(1.24m)、鼻(0.79m×0.73m×0.30m)。
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耳長(1.90m)。
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口広(0.82m)。
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ん?口髭と顎髭があるんですね。初めて知りました。
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大仏の背後に置かれている蓮弁。江戸中期に蓮台の製作を企図して鋳造。当初全32枚の製作予定でしたが、完成したのは同4枚。表面には寄進者の名前が刻まれています。
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大仏の真後ろにある笠塔婆には「南無阿彌陀佛」「稻多野殿」「建長五癸丑年五月二十三日」。建久6年(1195)、奈良東大寺再建供養会に参列した源頼朝が、鎌倉にも大仏建立を発願したが果たせずに没し、その後、源頼朝の侍女であった稲多野局が頼朝の意思を引き継ぎ、僧浄光が勧進して造ったといいます。
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大仏の背中。猫背です。頭を大きく造り、猫背にすることで、正面にいる参拝者から見ればバランスのいい姿勢になるよう設計されているのがわかります。
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背中には扉がありますが、鋳造法の際にここから中の土を取り出したそうです。
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フックのようなものもあります。大仏の後ろの山は後光山といって光背の代わりとして名付けられたと云いますが、元々は大仏殿の中にあったわけですし…かつては光背があったのでしょうか。
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胎内拝観。拝観料20円!安い!
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胎内に入ると高度な技術を駆使しているのがわかります。内壁に見られる大きな格子模様からは、大仏像が約40回にも分けて鋳上げられた様子も窺えます。また、分割・鋳造されたパーツのつなぎ目に、部位に応じ3種の鋳繰りが使い分けられていることも確認できます。昭和35年に大修理が行われ、頭部補強のために頸部に強化プラスチックERPが塗布され、地震に対する対策として本体と台座の間にステンレス製の板が敷かれています。
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ちなみに中はかなり狭いです。更に暗いです。そしてサウナ状態!ってことで20円分も見ずに出てきちゃいました。300円以上なら頑張っていたかも(笑)
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大仏殿礎石(観光客の椅子状態)。
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創建当初に大仏を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたと考えられており、現在境内に残っている礎石は56基で、いずれも根府川産の輝石安山岩。庭石や水盤に転用されているものもあります。
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大仏像に向かって右側の回廊内壁に常陸太田市松栄町に活動拠点を置く松栄子供会によって奉納された長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgに及ぶ藁草履があります。この草履の制作・奉納は、戦後間もない昭和26年に「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供たちによって始められ、松栄町会では昭和31年以降も3年に1度、藁草履の制作をして寄進を続けているそうです。
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観月堂。15世紀中頃に漢陽の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物。大正13年(1924)当時これを所持していた山一合資会社(後の山一證券)の社長杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈されました。鎌倉観音霊場23番札所ともなっており、観月堂に江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置しています。
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観音菩薩立像。
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宝塔。
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大佛道碑。
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当山中興祐天大僧正二百年御遠忌報恩記念碑。
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星野立子句碑(1973年)。説明は上記。
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句碑前には礎石。
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至る所に礎石。
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松香長与先生紀功之碑(大正8年・町制25周年記念事業)。題の篆書は日本銀行を設立した松方正義、撰文は医学博士の土肥慶蔵、碑文の文字は一高教授の菅虎雄の揮毫。
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ジャヤワルデネ前スリランカ大統領碑…『Hatred ceases not by hatred but by love』、『人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる 人は憎しみによっては憎しみを越えられない 法句経五』…シンハラ語は無理(笑)
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十三重石塔。
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その他石塔等。そういえば与謝野晶子歌碑とか色々あったのに大仏様に心奪われて、他をちゃんと見なかった。
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高徳院の入口付近にある石碑…『東三十三箇國 總國分寺 大佛』『享保元丙申稔九月二日■■開闢』などとあります。
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肝心な所が読み取れない(笑)
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東大寺の大仏は日本の総国分寺(東大寺)であり、鎌倉大仏は東国の総国分寺ということかな。興味深い碑ですね。
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もう一つ面白い碑がありました。重修大仏坂記碑。大仏坂切通しについて彫られています。※一部読み取りにくかったので間違っていたらすいません。
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『鎌倉之為地南瀕海環東西北皆山也有七路鑿山通之其西北之路曰大佛坂最険且隘負擔過之者不数歩而口喘背汗矣郷父老三橋小左衛門矢澤小左衛門徳増七三郎等二十餘名相謀募金修之官嘉其志賜以金百円明治己卯夏五月興彼至庚辰春三月竣功凡五町之間削両崖三丈畳石以防崩壊而得平坦者八十餘歩廣可容二軌用工二千三百五十餘人資金一千餘圓昔之口喘而背汗者今則謳歌而過焉衆皆徳之夫施恵於人者金帛為小修道路為大以其治迄干久遠也小左衛門等二十餘人能擇其大者率先成功可謂偉矣余乃記其事以勒石郷人之志也 明治十四年五月阿波 伊藤士龍撰並書』
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こんなに有名なのに、色々知れば知るほど謎も深まる鎌倉大仏さんでした。
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