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新館八幡宮の近くです。墓所があり、その向かいに釈迦堂という建物がありました。新館八幡宮の記事も参照ください。竹館村誌には「延暦年中田村磨将軍東夷征伐の時、夷を仏教にて教化せんとして釈迦堂を建立した。この跡は今釈迦堂屋敷、また釈迦堂沢とよんでいる。」とあります。同じく竹館村誌では稲荷宮について「往古延暦年中田村磨将軍が東夷征伐の時、夷を仏教にて教化せんとしたが、これに応じないので、やむなく戦勝祈願の為にこゝに一社を建立した。これが後油沢与五左衛門の死と同じに服場森(後福場森と改む)に将軍の守護神、八幡宮と稲荷宮を合祀し又与五左衛門の冥福をとむらう為に釈迦堂もこゝに合祀そして釈迦如来を勧請したとなっている。実は二社一堂共に別々のものであった。」とあります。貞享4年検地水帳には「釈迦堂地 拾壱間×拾間 三畝弐拾歩 堂建有之村中抱、右堂地従古来除来ニ付新検吟味之上前々之通除之者也」とあります(※現在とは異なる場所と推定)。
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釈迦堂前の地蔵堂。
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3体の地蔵様がおります。綺麗な服を着ておられますね。
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大きな庚申塔が2基ありましたが紀年銘等は読み取れませんでした。
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肝心の釈迦堂ですが拝観できませんでした。
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