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野辺地町役場の隣にあります。
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パンフレットより…『国登録有形文化財(建造物)。建築年代:明治23年(1890)頃。構造・形式:木造平屋建、鉄板葺。建築面積:102㎡。所有者:野辺地町。登録年月日:平成20年7月8日。野村治三郎家は江戸時代から廻船問屋を営み、弁財船5・6艘を所有する大規模な北前船主でした。明治9年(1876)に明治天皇の行幸のあることを知った六代野村治三郎は自宅に離れを新築し天皇の宿泊所である行在所に指定されました。明治14年の行幸でも行在所となり、その後、明治23年の大火で消失しましたが、ほどなく同形式で再建されました。この大火の際には新潟から米を搬入し、罹災した514戸に一俵ずつを見舞いとしておくったと伝えられます。旧野村家住宅離れはかつての野村家敷地の東側にある庭園と一体化した数寄屋風の住宅です。切妻造鉄板葺の木造平屋建で、西面には切妻屋根を出し玄関とし、庭園側の東面には高欄付きの榑縁が設けられています。内部は8丁間・6丁間・6丁間・6丁間の4室を田の字型に配し、庭園に面した主座敷には書院と床脇のついた床の間があり、室境は近江八景の彫刻欄間で飾られています。建築当初の姿をよく残しており、本県に近代的建築技術が導入されるようになる以前の建築のありようを知ることのできる良質な和風建築です。』
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案内板より…『野村治三郎家は江戸時代から廻船問屋を営み、弁財船5・6艘を所有する大規模な北前船主でした。明治9年(1876)に明治天皇の行幸のあることを知った六代野村治三郎は自宅に離れを新築し天皇の宿泊所である行在所に指定されました。明治14年の行幸でも行在所となり、その後、明治23年の大火で消失しましたが、ほどなく同形式で再建されました。この建物は東側にある庭園と一体化した数寄屋風の住宅で、行幸当日の夜、庭園の石灯籠に火が灯されると天皇はいたくお気に召されたと伝えられています。切妻造鉄板葺の木造平屋建で、西面には切妻屋根を出し玄関とし、庭園側の東面には高欄付きの榑縁が設けられています。建築当初の姿を良く残しており、本県に近代的建築技術が導入されるようになる以前の建築のありようを知ることのできる良質な和風建築です。』
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行在所建札(明治9年)…『野辺地行在所の建札。建札の規格は、政府から県を通して指示され地元で用意した。字は五戸の神官新井田登の書。建札は巡幸後、その家に下賜された。』
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行在所建札(明治14年)…『野辺地行在所の建札。地上から約3mの高さに建てられた。字は元会津藩士の園部竹堂の書。』
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平面図(1/100・延べ床面積101.90㎡)。
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東側立面図(庭側・1/100)。
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A-A断面図(1/100)。
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旧野村家住宅離れ。
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旧野村家住宅離れ内には色々な案内板(「明治天皇の奥羽御巡幸」「名望家野村治三郎家の栄誉」「御巡幸の宿割」「野村治三郎家の系譜と家訓」「野村家住宅と行在所」など)がありましたが、多過ぎるので省略させて頂きます。興味のある方は現地へ!(笑)
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大正時代末期の野村家の本町通りに面する敷地の面積は約2,200坪(7,200㎡)で、自宅のほか野村銀行、土蔵7棟など建物の総建坪は600坪以上。煉瓦と呼ばれた洋館は賓客や多人数の来客に利用され、その東側の常居が家族全員で食事をする場で、常居の南が厨房でした。その後、煉瓦造りの洋館は昭和17年から29年まで役場庁舎として使用されています。現在は行在所と庭園、土蔵1棟が野村家住宅の往時の面影を伝えています。
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旧野村家住宅離れ内。
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明治9年の巡幸で、一行が野辺地の行在所に到着したのは7月13日の午前11時。午後3時に野村治三郎は天皇への拝謁を許されました。野村家の『諸書上物控』にはその時の様子が記されています…『主上(天皇)は正面、右は従一位右大臣岩倉具視殿、左は少し下り宮内卿徳大寺實則殿がいらっしゃって天顔拝謁をおおせつけられた。ただし玉座(天皇のお席)は、八畳敷の切柱のところ、治三郎は次の間の六畳敷の中ほど、玉座との間は二間にすぎない。右大臣岩倉殿から勅宣(天皇のみことのり)があり、「そのほうは平日から仁心が厚く、市中のためにつくし、去る凶作の年には貧民を救助いたし、かつ今般の御巡幸では自費で行在所を新築したのは奇特の至りである。このことが叡聞(天皇がお聞きになること)に達したので、かたじけなくも拝謁をおおせつけられたのである」と言われた。(意訳)』。午後8時には木盃1組、紅白縮緬2匹、金150円が下賜されています。野村家ではこれを内神や内仏に供えて家族一同祝いました。夜になり庭園に灯りをともすと、さらに灯りが追加され、庭園内の7尺4方の東屋には2人分の沓の跡があったといいます。翌日の午前5時30分、巡幸の一行は青森に向けて出発しました。
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拝謁の場面。手前から右大臣岩倉具視、玉座(明治天皇)、宮内卿徳大寺實則。
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隣の部屋の野村治三郎。
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庭園。
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昔の写真。
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庭には石灯籠が沢山ありました。
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一周できます。
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庭園の木にはすべて名前がかけられており、私のように植物に無知な人は助かります。
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イチイ、アマギツツジ、コウヤマキ、カヤ、ヒノキ、アオシダレなどがありました。
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池にはたくさんの鯉。
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頌徳費。
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土蔵。
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