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鯵ヶ沢町から灯を頼りに泳いできたら、野辺地の常夜燈公園に着きました。
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尾去沢鉱山と野辺地湊/銅の道。
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『野辺地湊の繁栄をゆるぎないものとしたのが、銅の搬出でした。1765年(江戸時代・明和2)、南部藩は、尾去沢(秋田県)鉱山を藩の直営とし、銅を生産させました。銅は、尾去沢から花輪・大湯・・・田子・三戸・・・七戸・野辺地と136kmの陸路を牛の背により運ばれました。野辺地湊に集められた銅は、御用銅(ごようどう)として大坂に向け積みだされることになります。御用銅とは、幕府が輸出用に取り扱った銅のことです。山元で生産された銅は「荒銅」といわれ、完全なものではありませんでした。大坂に運び、精錬し(棹銅さおどう)、長崎へ運んで、オランダなどとの貿易に利用されたようです。』
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浜町の常夜燈。
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『浜町の常夜燈は、文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきたものである。常夜燈には、毎年3月から10月まで灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。江戸時代に物資輸送の大動脈であった大坂と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。湊には湊役所・遠見番所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合に停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた。この常夜燈は、かつての野辺地湊の面影を伝える貴重な史跡である。野辺地町教育委員会』
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現存する国内最古の常夜燈。
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高さ380cm。基礎の最下部220cm四方。
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正面には「常夜燈」、背面「金毘羅大権現」、側面「文政十丁亥歳」、「正月吉良日」。
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基礎部には常夜燈の建立に携わった「野村治三郎」、「橘屋吉五郎」の名前が刻まれています。
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江戸時代の航路。
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『野辺地湊が大きく栄えるきっかけは、材木の搬出といわれています。青森県の山々はかつて、桧におおわれていました。野辺地湊には、馬門などの山の木を求め、多くの船が訪れたようです。「野辺地郷土史年表」によると南部藩雑書に「慶安二年(1649)に、松前より野辺地へ着岸の商船12艘」のくだりがあるようです。このころ下北半島の諸湊は、桧材を積みだす船でにぎわいました。積みだされた桧は、江戸や大坂などに運ばれ、お寺や神社、大名の江戸屋敷などの建築材として使われました。』
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遠見番所跡(平成15年10月30日野辺地町教育委員会)。
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『江戸時代、この場所には南部藩によって設置された遠見番所がありました。江戸幕府は外国との通商や交通を禁止していたことから外国船を発見・監視するために設けられた施設です。』
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