丸山稲荷社。
社殿は商売繁昌を願う多くの方々より奉納された赤い旗で囲まれています。
当宮で最も古い室町期の建物。
宇佐神宮遥拝所。全国にある八幡宮の総本宮である宇佐神宮をお参りする場所。
その近くにあった門。
女坂を下りますと、若宮儀式殿横、柳原神池(蛍放生祭・鈴虫放生祭の祭場)付近に着きます。
柳原…『此邊ハ往昔柳ノ名所ニテ柳原ト唱ヘシ由口碑ニ年經タル鶴岡邊ノ柳原青ミニケリナ春ノシルシニノ古歌傳ヘラル其ノ作者詳ナラザレドモ一説ニハ北条泰時ノ歌トモイフ現存ノ柳ハ即チ往昔ノ名残ナラン 昭和9年3月鎌倉町青年團建』
タイワンシマリスがいました。人慣れしています。鎌倉市では珍しくない光景ですが、特定外来生物のタイワンリスにより様々な被害が増加しているため防除を行っているそうです。一方で観光客からは鎌倉の名物として人気者扱いされており…複雑なところ。
由比若宮遙拝所。
鶴亀石。
鶴亀石…『相模國風土記稿に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され大変めでたい石である』
菅裸馬(菅礼之助)句碑。
『大銀杏の下で非業の死をとげた三代将軍源実朝公をいたみ俳人でもあった菅礼之助(俳号裸馬)が詠んだ歌。「歌あはれその人あはれ実朝忌」裸馬』
東鳥居。
東鳥居近くにあった畠山重忠邸址碑…『正治元年五月頼朝ノ女三幡姫疾ミ之ヲ治センガ為當世ノ名醫丹波時長京都ヨリ来レル事アリ東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ 大正12年3月 鎌倉町青年團建』。
実朝桜。
「風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月」源実朝詠。
白旗神社へ。
すぐ右手に源実朝歌碑…『山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも』。関東大震災で倒れた二の鳥居で造られた歌碑。
文学案内板鶴岡八幡宮…『鶴岡八幡宮は、「吾妻鏡」をはじめ「平家物語」や「義経記」などの軍記物語、「海道記」や「東関紀行」などの紀行、「とはずがたり」や「徒然草」、「金槐和歌集」など、各分野で多数の作品に描かれています。さらに、近世、近代には数えきれないほど多くの文学作品に描かれており、また、境内では、実朝忌俳句大会やぼんぼり祭りなどの催しが開かれています。この案内板では、境内にある文学碑のみを紹介します。●源実朝歌碑「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」昭和17年鎌倉文化連盟建立。正面に見えるのが、関東大震災で倒れた二の鳥居による歌碑。この歌碑は、当初鎌倉ペンクラブにより計画された。のち、鎌倉文化連盟結成とともに、連盟各部の協同事業として社団法人・鎌倉同人会の賛同も得、建立された。●菅裸馬句碑(白旗神社前)「歌あ波れその人阿は連実朝忌」昭和36年同人社建立。』
直会殿と国宝館の間付近。
鳥居をくぐると右側には鎌倉国宝館(撮影禁止)。
手水舎。蓮華座のある基礎石を手水鉢として使用し、石の下に蓮の彫刻が見られ、神仏習合の名残を感じさせます。
白旗神社。
御祭神は源頼朝命・源實朝命。例祭日は5月28日。
黒塗りが印象的な社殿。御祭神の御神徳にあやかり必勝や学業成就の信仰が篤い社です。
齋館(献幣使をお迎えしたり、国内外からの賓客をもてなす場所)前です。休憩所があり、源平池が見えます。
旗上弁財天社が見えます。
人に慣れ過ぎている鳩たち。
さざれ石。さざれ石の裏には白旗神社の石鳥居の笠木が安置されています。
さざれ石…『この石は国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠まれている「さざれ石」です。石灰石が雨水で溶解され生じた乳状液が小石を凝結して「君が代」に詠われているように大きくなって岩に成長したものです。学名を石灰質角礫岩といいます。昭和36年岐阜県春日町で小林宗一氏により発見され52年に岐阜県の天然記念物に指定されました。この石は発見者の御子息小林文治氏により昭和56年に当八幡宮に奉納されました。』
源平池の東の島に鎮座する旗上弁財天社へ。
旗上弁財天社からの源平池。
鳥居。
旗上弁天社御由緒記…『治承4年(1180)8月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182)大庭景義に命じ境内の東西に池を堀らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和31年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和55年9月鶴岡八幡宮創建800年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。因みに弁財天信仰は、鎌倉時代既に盛んで妙音芸能の女神、福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。祭日:例大祭4月初巳の日・祈願祭毎月巳の日。旗上奉納:二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込下さると願意氏名を記し祈祷して奉納し毎日神前に掲げます。旗上祈祷:頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め、家内安全、商売繁昌、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受付けております。政子拝観:古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。』
参道敷石奉納碑。
手水舎。
社殿。
社殿の裏にまわると政子石があります。
夫婦円満、子宝、安産のご利益がある祈願石で、姫石とも呼ばれています。
少し離れまして、本宮の西にある車祓所。
車祓所の横にある鳥居。
こちらを進めば本宮のすぐ横(丸山稲荷社付近)に着きます。
鶴岡文庫付近にひっそりと佇んでいる今宮(新宮)へ。
後鳥羽、順徳(佐渡島へ流される)、土御門(明治時代以後に合祀)の三天皇がお祀りされています。例祭日は6月7日。承久の乱により隠岐島へと流された後鳥羽天皇を宥めるため、宝治元年(1247)4月25日、鶴岡の乾の山麓に日夾一宇の御社を建立。
『四条天皇延應元年鎌倉中處々喧嘩闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ茲日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ビ護寺僧長賢ヲ合祀セラル長賢ハ承久ノ役官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ今宮ハ又新宮ト書ス 昭和4年12月鎌倉町青年團』
今宮の後方には一つの根から6本に分かれた六本杉と呼ばれる大木があり、そこには天狗が住み着いていたという伝説があります。
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