イメージ 1
案内板によりますと…津軽観音霊場第34番鶴田白衣観音霊場。津軽山自覚院白衣観音堂。
イメージ 2
えっ!?津軽観音霊場!?しかも34番!
イメージ 3
津軽第34番白衣観音霊場創立趣意書(発願主片山徳秀)…『「釈迦阿弥陀薬師観音異なれど同じ心の解脱なりけり」。お観音と言えば浅草、浅草と言えば観音様、だが御本尊のお観音様が、50kmも離れた文京区の護国寺にあることを知る人は少ない。昔から日本各地に3、4、6、7、8観音とか、33、34、百観音など、その霊場を巡拝し、現世の福寿と家内安全を祈り、併せて名所旧蹟を尋ねて遊覧する習慣があるが、これは、今より千百年程前、大和の国長谷寺の徳導上人が霊夢により、西国33カ所霊場を定め花山天皇が沢山の従者と一緒に御巡礼されてより盛んになった。その後、鎌倉時代には坂東33霊場、室町時代には秩父34霊場が創立され、東北にも山形は最上に、南部は糠部津軽と創立され、只今のところ、津軽霊場は日本最北の観音霊場である。津軽霊場については、三百年前の記事に、弘前城の近く袋宮寺を第一番とし、西の深浦、北は三厩、東の青森、南の広船、最終は弘前の大円寺(現在の最勝院五重塔のある寺)となっているが、江戸中期になって新田の開発が進み、新しい村落が生れて観音信仰が盛んになったが、一方には元寺町の大火等があり14カ所の霊場が移動している。以前は10番だった久渡寺がこの時から第一番掛札所となる。ぼさつと名前のつく、ぢぞう、みろく、こくう、ほうぞう、かんのんと沢山有りますが、その沢山ある菩薩様の中でも、白衣観音を諸菩薩の母と尊称している。その訳は、全身を清潔な白衣で包み、優美な天女の面相は、清浄高潔な母性の慈愛心を表徴し、その功徳は、各宗に通ずる普門の教示により、身代り観音、安産子育守護神と敬愛され、特に白衣の純真無垢の容姿は若い人達に好感を呼び、机上に置いては勉強の疲れをいやし、ある日は恋愛の苦悩をなぐさめ、床の間の置き物、壁掛の絵等、工芸美術の仲間にも愛好家が多い。仏像の絵画彫刻類中その生産量は日本一である。大は大船の白衣から、小は子供達の手みやげまで老若男女、貴貧を問わず大衆性がある。津軽霊場御本尊中、聖観世音菩薩13体、千手観世音菩薩8体、十一面観世音菩薩が8体、加意輪観世音菩薩4体、上記の様に同名同体が多く有りますが、諸観音の母である白衣観音菩薩を奉安している霊場は一カ所もないので、当所を秩父の34カ所観音霊場に習い、津軽第34番御本尊白衣観世音菩薩霊場と公称する。只願日は、諸民安穏、地域開発速進を念じて当霊場開創の序とす。合掌』
イメージ 4
御本尊の名称白衣観世音菩薩(作者太田垣蓮月尼の略歴)…『幼名を誠(のぶ)父は、伊賀上野城主。藤堂金七郎と芸者との間に生まれ、寛政3年(1791)正月8日京都加茂川西で生まれた。生後十日程で知恩院の寺侍太田垣伴衛門輝古の養女となり、八才より十八才まで、丹波国亀岡城に武家奉公して文武両道を学ぶ。義兄の若死と義母の逝去に、義父を扶ける為京都に帰り、義父遠縁の方と結婚したが、この夫、放蕩児で、心安まる日が無く、長男鉄太郎を生後二十日余りで死亡させてしまった。初婚に破れ男性嫌悪になって了う。この時誠は二十五才だった。誠二十九才の時「女の操も大切だが家の相続も考えてくれ」といわれ彦根藩家中の石川重二郎を養子に迎える。再婚は、夫婦の情愛深く、翌年女児をあげ、父も家督を譲り、それこそうらゝかな生活が訪れたが、結婚三年にして夫は癆咳で亡くなった。誠はその頃の日誌に「春風吹いたかと思えば亦夢破らる」と記して有り、知恩院大僧正に従って父と共に得度(尼さんになること)し父の存命中は、斬髪の尼さんだったが、名も蓮月と授けられた。四十三才の時父の他界により長髪を剃って岡崎に住み、名産の粟田焼(焼物)技術修得し、自作の歌詩を自書して焼いたのが有名になり、粟田焼と呼ぶより、蓮月焼と呼ぶ方が名高くなった。焼物の売上は、京都九太町橋を単独で架けたり、明治、大正の南画家富岡鉄斉の長崎留学の学費にしたり、渡辺崋山等の交流が深い江戸開城に当り、西郷隆盛に献上の…仇みかた勝つも負けるも哀れなり同じ御国の人と思へば…この歌が、幕軍の山岡鉄太郎の心を打ち、江戸を焼の原より救ったというのは、尼七十八才のときであるし「身も老年に及べり、何時命終するやも計られず」と、棺桶を用意していたが、存命中は米びつの代用にしていた等々の逸話が多い烈婦といえましょう。明治八年十二月八十五才で永眠した。』
イメージ 5
案内板より…『あわれはらから心せよ 山より高き父の恩 海より深き母の恩 知るこそ道の始めなり わが子を守るまめやかさ わがふところを寝どことし かよわきうでを枕とし 骨身をけずる悲しさよ 美しかりし若妻も おさな子一人育つれば 花のえがおもいつしかに 衰え行くこそ悲しけれ 身を切るごとき雪の夜も 骨さす霜のあかつきも かわける所に子を寝かし ぬれたる所におのれふす 幼き者の身をかばい ふところこがし背をぬらす 不浄をいとう色もなく 洗うも日々にいくたびぞ おのれは寒さにこごえつつ 着たるをぬぎて子を包み 甘きははきて子にあたえ にがきはおのれが食うなり 幼な子お乳をふくむこと 百八十石をこすとかや まことに父母の恵みこそ 天のきわまりなきごとし 父母はわが子のことならば 悪ごう作り罪深し 良しや悪趣に落つるとも 少しの悔もなきものを わが子遠くへ行くならば 帰りてその顔みるまでは 出ても入りても子を思う 髪くしけずり顔ぬぐい 衣を求め帯を買う 美しものは子にあたえ 父母は古きをえらぶなり おのれ生あるそのうちは 子の身にかわらんこと思い おのれ死にゆくその後は わが子の幸せ祈るなり よる年波もかさなりて いつしか頭も霜じらが 衰えまする父母を 仰げばおつる涙かな 子はいかにして報ゆべき あゝありがたき親の恩 子はいかにして酬ゆべき』津軽山自覚院白衣観音堂事務所(青森県北津軽郡鶴田町大字廻堰字下桂井57の5)…◎祈願(厄難消除・家内安全・無病息災・水子供養・その他諸願)を申し受け祈祷しております。◎精神修養(会社研修・人格形成道場・個人修養・他)人生向上の修養に活用申し受けております。
イメージ 6
2016年白衣観音行事(第一日曜日)…『平成28年3月6日お寺、4月3日お寺、5月1日(日)お寺…春大祭(10時30分より)、6月5日堂、7月3日堂、8月7日堂、9月4日堂、10月2日お寺、11月6日お寺、12月4日お寺、平成29年2月5日(日)お寺…総会。◎おつとめ9時…雨天はお寺です。電話確認をしてください。☆白衣観音講(年会費千円)』
イメージ 7
水…『常に己の進路を求めて止まざるは水なり。』
イメージ 8
諸観音の母白衣観音、御詠歌…『津軽山 諸菩薩の母 御祀りて 法の松風 観るぞ尊し』
イメージ 9
参道にあった碑…『対話する君は時々やわらかき光の如く笑みを給わる』平成26年3月吉日伊藤惣一郎うたを花抄かく。
イメージ 10
同じく参道にあった碑…『舞い終えた花が静かに地に眠る』平成27年3月吉日中野野泣子句を花抄かく。
イメージ 11
貫が無い鳥居。『この鳥居は、中国の西南地区様式に伝え守られている。この外生活様式が私達に似ている。』
イメージ 12
鶴田津軽富士見湖鳥居建立勧進芳名碑(平成6年7月19日落成)。
イメージ 13
白衣観音堂を一周してみましょう。
イメージ 14
正面には津軽山(1980年秋彼岸、当山開山之署)。
イメージ 15
その他の扁額。
イメージ 16
イメージ 17
イメージ 18
三十三観音へ。
イメージ 19
門には龍がいました。
イメージ 20
イメージ 21
こちらの碑が面白いですね
イメージ 22
「七宝櫓閣」、「八功徳池」、「七重行樹」などの文字が見えるので、極楽浄土を描いたものでしょう。
イメージ 23
両脇に狛犬付きです。
イメージ 24
イメージ 25
三十三観音。
イメージ 26
イメージ 27
イメージ 28
34番目、少し大きめの白衣観音。
イメージ 29
昭和59年8月12日建立。
イメージ 30
イメージ 31
三十三観音と白衣観音堂。
イメージ 32
津軽民舞踊尾原流元祖尾原家万次郎師碑…『師は、明治32年4月20日鶴田町尾原に、父棟方福太郎、母くり、三男、として誕生。12歳の春、農家の借子(奉公人)となって、労働しながら、津軽民謡手踊りの、研鑚をした。昭和40年11月16日、故郷で病死。行年67歳。大正末期から、亡くなるまで民謡踊のプロ、第一号者として、名声が高い。』
イメージ 33
尾原家万次郎師碑の横にあった石。
イメージ 34
『ここは屏風山の起点です』と書かれた碑と、屏風山の由来が書かれた案内板。
イメージ 35
屏風山の由来…『当地方は、岩木山から吹きおろす風と、西海岸から吹きつける潮風が強く青田も枯死する正に不毛の地でした。(1682年)天和2年津軽藩主4代信政公は、この岩木山颪と潮風を防ぎ、新田開発を奨めるためにこの地点から現在の市浦村十三まで36kmに近傍所在の農民に松の植栽を命じました。この松が成林し、あたかも室内に屏風を立て廻したようであったところから屏風山の名が残ったと言われています。』
イメージ 36
イメージ 37
明治百年記念碑(全国老人クラブ連合会々長・文部大臣、灘尾弘吉書)。
イメージ 38
聖戰從軍之碑(陸軍大將荒木貞夫書)。
イメージ 39
碑銘…『鶴田町聖戰從軍者一同相謀り報恩感謝先憂後楽の至誠を結集して此の碑を建てます。蓋し明治以来當町出身千數百の良民良兵は累次の聖戦に從って勇戰奮斗赫々たる偉勲を秦し又平時においては各職域に流汗奨勵して郷土の發展に寄與せられましたがそれら幾多の武勲功業を顯彰し以って郷土人心の繁榮作興を圖らんとする趣旨であります。希くば戰友諸賢の魂魄此の碑に宿り永久不滅護國の榮光に映え明るく住みよい町つくりの灯台たらんことを祈念して止みません。昭和40年5月5日建設委員會委員長下山繁十郎』
イメージ 40
永沢翁顕彰碑。
イメージ 41
『永沢得右衛門奉実(とものり)翁顕彰碑文。永沢翁は天保12年(1841)4月、津軽藩士。深堀長左衛門の二男として生まれ、嘉永3年11月稽古館に入学、14才で永沢孫之丞の婿養子となる。明治元年(1868)10月、函館戦争に半隊長として出役するも廃藩となり同7年5月、水元村後中野に父子ともに定住し、寺小屋を開設する。同9年9月、木筒小学校設置とともに家塾を校舎に提供し、自ら教師として、爾来十数年子弟の教育に当たる。明治22年5月、水元村長に就任するも翌春辞職し、同35年3月、居を弘前に移し、同40年12月より「津軽史」の編さんに当たる。毛筆による全193冊、半紙判3万8千6百余枚に上る大著、大正7年12月完成、11年余の歳月が費されている。県文化財保護協会では、この「津軽史」の復刻を計画し、昭和48年3月からこれまで第20巻が刊行されているが、後学者の得がたい研究史料として高く評価されている。鶴田町親交会は結成40周年を迎えるに当たり、郷土ゆかりの史家の偉業顕彰碑を建立し、鶴田町の教育環境の充実を図り、人材育成の資とする。平成2年(1990年)9月1日鶴田町親交会長竹浪正静撰』
イメージ 42
関連記事:『廻堰大溜池・鶴の舞橋・丹頂鶴自然公園(鶴田町)
再訪記事:『富士見湖パーク(白衣観音堂)』
イメージ 43
イメージ 3
イメージ 2