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石田三成の次男である石田重成は豊臣秀頼に小姓として仕えます。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで三成を初めとする西軍が大敗し、居城佐和山城も落城、津軽信建の助けにより乳母の父である津山甚内らと共に陸奥国津軽に逃れます。津軽では杉山源吾と名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(板柳町)に隠棲。
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重成が津軽に匿われた際に持参してきた木造太閤秀吉座像は、徳川家康の養女である満天姫が正室として迎えられた際に、弘前城の館神であった稲荷神社本殿に祀られていた御神体の裏に秘仏として隠され、稲荷神社が解体された後は、弘前城の東にある弘前東照宮と対峙するかのように西の革秀寺へと移されています。
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一方、三成の三女である辰姫(高台院の養女)は弘前藩主津軽信枚に嫁ぐも(慶長15年(1610)頃)、慶長18年(1613)に家康の養女である満天姫を信枚に降嫁させ、辰姫は側室に降格。弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移されて大舘御前と称されます。しかしながら信枚は参勤交代の際には必ず大舘に立ち寄り辰姫と過ごしたそう。元和9年(1623)に死去。辰姫の墓所は群馬県太田市の東楊寺、弘前市の貞昌寺になります。辰姫の長男である平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、寛永8年(1631)信枚の死後、13歳という若さで弘前藩主を継ぐことになります(津軽信義)。信義は明暦元年(1655)に江戸神田邸にて死去。享年37。長男の信政(生母:久祥院)が弘前藩主を継ぎました。信政はまだ幼少であったため、当面は叔父にあたる信英の補佐を受けていたそうです。信英は信枚の二男です(黒石初代領主。母:満天姫)。
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なお、重成の長男である杉山吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職になり、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続しました。宗徳寺にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれています。
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