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熊野三所大権現宮由来記…『増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。御神体は熊野本宮大社(家津御子大神)・熊野那智大社(大己貴命)・熊野速玉神社(伊弉諾尊)。以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。大本山増上寺熊野みこし講』
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熊野(ゆや)神社(HPより)…『元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです。「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、当山では「ユヤ」権現として親しまれています。』
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手水舎。
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三本足の烏[八咫烏]…『「神々のお使い」…日本書紀によると、神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。「日輪の中に三本足の烏」…ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。「シンボルマーク」…天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。大本山増上寺熊野みこし講世話人益子良道』
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社殿。
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大本山増上寺熊野みこし講創立40周年記念碑「創始者綿貫次郎」…『西暦1974年(昭和49年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。平成26年4月吉日大本山増上寺熊野みこし講』
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