大鰐町の専称院に行ってきました。
地蔵尊半跏坐像(大正9年6月24日)が迎えてくれました。
その隣には両足尊(昭和58年)。ここから右へ上ると本堂、左へ上ると墓地です。
墓地の方にある観音像。
観音経にある言葉「慈眼視衆生」…慈しみの眼をもって衆生を視る。
地蔵堂。
本堂裏手。
本堂正面へ向かいます。
本堂前には御灯明一対(昭和63年)、御灯明一基(昭和63年)、如意輪観音座像(大正9年7月)があります。本堂内には本尊の阿弥陀三尊像(二尺八寸。岩手専称院時代からのもの)、十一面観音像(四尺五寸。元百沢寺本尊・旧岩木山山頂本尊)、四天王像(百沢寺本尊守護像。百沢寺本尊堂(現長勝寺蔵)の四隅に立っていた極彩色の四天王像)。
専称院の歴史は明治16年に阿闍羅山頂に建立された観音堂に始まります。古くは天台宗のお寺であったそう。昭和58年に現専称院が新築される頃まで古老たちは「山寺」と呼んでいました。明治38年に岩手県盛岡市の浄土宗専称寺の寺号を移して現在に至ります。
本堂の横に阿闍羅堂。
元岩木山山頂観音像(聖観音金銅像)を祀っている堂で、阿闍羅山のお山参詣の日には阿闍羅山大権現宮に遷されるそうです。
その他にも薬師如来像(津軽二代藩主信牧夫人の満天姫の護持仏)、不動明王尊(明治24年8月2日)、薬師如来坐像(江戸初期頃。新田氏伝来)、庚申神像(六寸)、阿闍羅開山木像一体(昭和4年6月)があるようです。
阿闍羅堂前に六地蔵(昭和8年)。
六地蔵の右に無縁仏地蔵尊。
六地蔵の左にも地蔵二体と…
うん?
お顔が欠けてしまったのね。
コの字型に西国三十三観音石像。
猿田彦太神(安政2年6月29日)と、手洗石(明治38年正月20日)もあります。
注目すべきはこちらの石塔。
「大正14年旧7月8日阿闍羅山より御遷座、奉納大鰐信者一同」と彫られています。つまりここにある西国三十三観音石像などは、かつて阿闍羅山に建てられていたものということですね。
境内からの風景。
普段は岩木山も見えるそうです。この日は残念ながら見えませんでした。
後日伺った時には岩木山が見えました。
【貞観年間(860代)】慈覚大師が阿闍羅山千坊の坊頭の観音坊創建。
【明治16年】弘運海が山に観音石像建立。
【明治22年】再度弘運海が山田聖観たちを連れて阿闍羅山観音堂に籠る。山田聖観が最勝院から十一面観音を持参して稗田沢に観音堂を開く。
【明治23年】岩木山本尊金銅の聖観音像を勧請して稗田沢観音堂を改築。旧百沢寺の四天王像を最勝院より勧請。
【明治33年】稗田沢から袴腰へ遷り「本の宮」とす。山寺と呼ぶ。この頃に多くの津軽の仏像が集められて祀られる。
【明治37年】岩手専称院号を移転し寺院に昇格。浄土宗となり岩手専称院の本尊阿弥陀像を本尊として祀る。
【大正8年】阿闍羅権現堂(山頂)を再建し、社標を建立(八幡館講中)。
【大正14年】阿闍羅山行者の西国三十三観音石像と手洗石などを境内に移転。
【昭和8年】本堂庫裡再建。
【昭和21年】阿闍羅文化集談会主催で北門鎮護の法塔建立。
【昭和51年】山頂宮再建。
【昭和58年】本堂・位牌堂・庫裡など新築再建。
【平成元年】阿闍羅堂新築。
【平成2年】山頂公園整備。
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