お墓等色々と残っておりますので跡地と言うには語弊があるかもしれません。かつての徳兵衛町で、明治初年の国誌によりますと、町の規模は東の中町より西の大工町まで長さ4町25間・幅2間3尺、ほかに北の門前小路に通じる寺小路は長さ63間・幅1間1尺、その西に並ぶ保福寺通は長さ65間・幅2間、寺小路の東にあり門前小路に至る円覚寺通は長さ63間・幅2間、戸数99(うち寺小路9)。現町域に含まれる門前小路は独立して記されており、油横丁角から保福寺まで長さ32間・幅1間余の小路で保福寺の門前をなすといいます。
長い参道にはや西国三十三観音石像(明治20年建立)や芭蕉句碑(文政10年建立「八九間空で雨ふる柳かな」)が残されています。
山門額には「保福禅寺」。
禁葷酒。
鐘楼。
建物が無いせいか、とても広く感じます。
本堂跡。
墓もあります。
六地蔵。
正面にある祠と聖観音菩薩像。
これだけ色々と残っているのならば、やはり跡地という言葉は相応しくないですね。
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