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建武中興十五社の一社。旧社格は官幣中社。別名大塔宮。
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御祭神は護良親王(大塔宮)。明治2年2月創建(明治天皇の勅命に由る)。御祭礼は8月20日。
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護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現するも、その後の足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉。建武2年(1335)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来の淵辺義博によって殺められました。武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年2月に明治天皇が護良親王を祀る神社の造営を命じます。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿を造営。明治6年4月16日に明治天皇が鎌倉宮を行幸、同年6月9日に官幣中社に列格。
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『後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、28歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。10月には境内で薪能が催されます。』
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境内では万灯みたままつりの準備中。
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夜までいれないのが残念。
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手水舎。
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社務所。
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小賀玉の木。
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後から写真で確認したら小賀玉の木の横にある石燈籠の下に小さく撮影禁止とありました。これは気付かないです。ごめんなさい。ちなみに鎌倉宮境内での写真撮影は撮影料と撮影許可が必要です。
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厄割り石。
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厄割り石…『盃に大きく息を吹きかけ横の石に投げて割り体の厄(わるいもの)祓って下さい』
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この皿みたいな石を買って…
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この石に投げつけます!的が外れて1回で割れませんでした…縁起悪いので拾い上げて2投目(笑)
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鎌倉宮拝殿へ。
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拝殿。
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拝殿に大きな獅子頭守があります。護良親王が戦の時に兜の中に獅子頭の小さなお守りを忍ばせて自らの無事を祈ったことに由来する鎌倉宮創建当初からのお守り。
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拝観料を払えば土牢、宝物殿、教育勅語碑、鎌倉宮碑、多宝塔、御構廟、神石、献茶塔、神苑などを見ることができます。なお、摂社の南方社は本殿玉垣内にあるようで参拝できませんでした。
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村上社。
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『村上義光公は、護良親王の忠臣にして元弘3年(1333年)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。そこへ村上義光公が鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向って落ちのびました。このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ、「撫で身代り」として入魂致しました。』
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村上義光公像。
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結都実参道。
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バリアフリー!
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三浦半島八景大塔(鎌倉宮)の夜雨…『●大塔(鎌倉宮)の夜雨●神武寺の晩鐘●灯台(燈明堂)の帰帆●猿島の晴嵐●大佛の秋月●城ヶ島の落雁●長者ヶ崎の夕照●建長寺の暮雪。「八景」の考え方は、15世紀に中国から日本に移入されました。「近江八景」や「金沢八景」が有名ですが、三浦半島地域でもこれまでにたくさんの「八景」が残されています。伝統的な「八景」は次の八つの景色を基本形につくられ、それぞれ次のような情景を表すのではないかと言われています。●夜雨:水辺の夜の雨●晩鐘:山寺の晩鐘●帰帆:港に帰る漁船●晴嵐:朝もやに煙る松林●秋月:水辺に映える秋の月●落雁:干潟に降り立つ雁の群れ●夕照:夕日に照らされた遠くの山●暮雪:夕暮れの雪景色』
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こちらの碑は読めませんでした。
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弘法大師八十八箇所道碑。ここから左二町に覚園寺があるという道標。
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鎌倉宮に向かう途中(県道204号の岐れ路)で見つけた庚申供養塔(延享2年)と追分石(右大師道)。
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