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最初は入口がわからず茶臼山公園から行ってしまいました。上からは施錠されており入れませんでした。
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屋根が近くに見えるだけです(笑)
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入口は大鰐若松会館前。
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駐車場があります。
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南無妙法蓮華経と彫られた碑と庭石(創立300年祭記念)。
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その横の石段から里見館(茶臼山公園)へ行けるようです。
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ちょうど大鰐温泉つつじまつりがやっていましたが華麗にスルー!
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増田手古奈句碑「茂りとはかく美しきものなるか」。
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本堂へは石段を上っていきます。
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石段上の両端の碑。
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紀年銘は昭和12年5月。よく見えませんでしたが、石段他改修・竣工の際の記念碑かな。
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そのすぐ後ろに石燈籠一対。紀年銘は元治2年5月15日。
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何やら色々。
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石祠の中…「南無龍行水神主」。
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竜神堂の池。
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竜神堂は昭和50年頃まで湯野川原紅葉館向かいの茶臼山入口付近にあったもの。相生竜神堂は日精寺の守護神。
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池を見下ろす…
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この場所に…
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相生竜神堂が鎮座していると本で読んだのですが…ありませんでした。『水神竜神 十和田信仰』にも「大鰐町ではバイパス沿いの北山の麓に竜神の小祠があり、個人で家内繁栄のために祀っているという。日蓮宗日精寺の境内の小池のかたわらに相生竜神堂があり、大日堂の池中に弁天堂があるのは、古くは天台系であった名残りであろう」とあります。
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池の横にある浄行菩薩石像(大正9年)。
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日蓮大菩薩銅像。
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台座。
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水子地蔵堂かな。
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こちらは如意輪観音的な方。
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こちらの小祠には…
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地蔵様がたくさん。
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石段を更に上ります。
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坂の途中に色々な碑等がありました。
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高祖日蓮大菩薩の隣にある見逃してしまいそうな小さな碑は、大鰐と青森県のスキーの父といわれる油川貞策の墓碑です。
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油川家は浄土宗でしたが油川中佐は大正末に日蓮宗に帰依改宗し、生前にこの題目碑を油川家の塀を廻した墓地内に建立しましたが、没後数年し、浄土宗の墓地に中佐の碑があるのはおかしいと日精寺に相談があり、日蓮宗であったことから本家の墓からここへ移されたそうです。
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更にその隣には尼港殉難記念霊塔(大正9年11月11日)。ロシア内戦中の大正9年3月から5月にかけてアムール川の河口にあるソビエトニコラエフスク(尼港。現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。詳細を知りたい方は「尼港事件」で調べてください。
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どうぶつ供養墓。
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本堂。本尊十界曼荼羅。もと弘前法立寺末。古から妙見堂の愛称で知られていたようです。元禄4年(1691)、大鰐湯野川原の川原で子どもの死を悲しむ母親と出合った日精上人が、そこに日精庵を建て、次の日真二世が本堂庫裡を再建して祀った多くの仏像や梵鐘に日真銘と供養文が記されて現存しています。日真二世は法力に大変優れ、享保10、11年の雨乞祈祷(虹貝川の蛇石の上にて祈祷)で雨を降らせて有名になり寺は栄えました。天保10年(1839)、湯野川原大火で類焼し、嘉永5年(1852)の日窺(門+規)14世代に村中で現在地の里見館へ新築移転。日精寺の妙見尊、藤崎妙見寺の鬼子母尊神、弘前市独狐の感応寺の七面天女は津軽三山と言われ、一日にこの「三ヶ寺かけ」をするとご利益があると信仰されてきました。江戸時代以来、当山の妙見様は多くの庶民の信仰を得ましたが、特に文久2年(1862)、第11代弘前藩主順承公の参拝により一層盛んになったそう。以前の妙見堂は現本堂の場所にあり、本尊の妙見像は熊本藩主細川幽斎公の陣中守護仏であった北辰妙見尊を、天保10年(もしくは8年)に弘前市の松屋新吉(法華信者)が日精寺に寄進したもの。像高3寸で、七星を光背とし、剣は天上を向き、眷属(白蛇と玄武)を従えています。季節と農耕の神、延命長寿の神として信仰されています。
参照:日真二世の雨乞祈祷…白山神社 (白山大権現 / 大鰐町虹貝大熊沢)
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昭和35年の豪雨で裏山が崩れて本堂、位牌堂共に大破。昭和42年に妙見堂地に現本堂が再建され、妙見尊は本堂南面中央、その左右に鬼子母尊神と七面天女が祀られています。明治政府の神道重視が原因で大正13年の秀温24世までに7代も住職が代わっています。大正13年1月16日に修法祈祷と説法に優れた佐藤秀温24世日将(明治28年、弘前市品川町に生まれ、新寺町の本迹院で出家)になってから寺運が大いに発展。昭和20年春、日本の戦局が不利となり国内に不安がみなぎっていました。その不安を除くため秀温24世は阿闍羅文化集談会と共に北門鎮護・立正安国の宝塔建設を決めています。「阿闍羅山頂の北門鎮護と立正安国の法塔に大昔からの聖山阿闍羅の霊気を集め、それと大鰐の人々の心を一つにして平和を祈願しよう」を合言葉にしたそう。これは蒙古来襲の時、日蓮聖人が正法こそ国を救うと「立正安国」論を唱えたことから、この法塔建立が話になりました。
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日精寺歴代上人の墓(昭和50年8月11日)。
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その裏にひっそりとある石燈籠と庚申尊神と馬頭観音。
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本堂から石段を見下ろした図。
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境内からの景色。遠くに岩木山も見えていました。
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ズーム!
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境内で瞑想している猫中佐。
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