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一の鳥居は隅田川に面しています。
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奥には石川島燈台跡(石川島人足寄場奉行清水純畸が慶応2年に建築。現在のものは安藤広重の浮世絵をレリーフした復元建築物)も見えますね。
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参道。
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佃島由来。
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『天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣された時、田蓑島(現代の大阪市西淀川区佃町)の漁夫等が漁船によって神崎川の渡船を勤めたので田蓑神社にも参拝され、その時田蓑村の名称を佃と改められた。すわなち漁業の傍ら田をも作れという意であった。天正18年家康公が関東へ下降された時、佃村の漁夫30余名が従えられ、田蓑神社の神主平岡正大夫の弟權大夫好次という者が、住吉大神の分神霊を奉戴して同行して安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に鉄砲洲の向の三角洲(百間四方)を幕府より賜わり、築島工事を起して正保2年それが完成したので本国の村名を取って佃島と称えることになった。その一部を社地と定め社殿を造営した。正保3年6月29日と記録されている』
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古地図を見てみましょう。
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石川島は鬼平の建議により無宿人を収容する人足寄場が設置された場所。佃島は佃煮の発祥地。
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ちなみに橋は赤丸の部分、一の鳥居は緑丸の部分。
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水盤舎・陶製扁額について。
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『住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治2年(1869)に再建され、同44年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治2年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。』
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陶製扁額。
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水盤舎。
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面白いですねー。
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青銅燈籠。
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住吉神社略縁起。
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『御祭神は底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)、息長足姫命(神宮皇后)、東照御親命(徳川家康)。例祭8月6日。
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「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神宮皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
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遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。
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天正18年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫33人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保2年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保3年(1646)6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています』
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本殿。
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本殿裏手の景色。
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真後ろは水路。ちなみに住吉神社の大幟柱や抱木は、この水路の底に埋められており、祭り(3年に1度)の年に干潮時を狙って掘り起こされます。空気に触れて木が腐らないようにするためらしいです。埋められている場所は佃小橋から見ることができます。その様子を見てみたいのですが、地方の人にとって3年に1度は厳しいです…って思ったら動画がありました。検索してみてください。
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神楽殿。
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二宮尊徳像。
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鰹塚。
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『鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)、「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。東京鰹節類卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。表面の揮毫は、日展審査委員で組合員・鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです』
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五世川柳水谷緑亭句碑。
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『水谷緑亭(1787-1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名主をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から3度にわたり褒賞を受けました。文化年間(1804-1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837)50歳の時に五世川柳を継承しました。五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた「誹風柳多留」が167編で刊行を終えますが、天保12年から「新編柳多留」を刊行し、嘉永2年(1849)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に「柳風狂句」と名付けています。編著には「狂句百味筆筍」をはじめ「住吉社奉額狂句会」等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、「遊仙沓春雨草子」「祥瑞白菊物語」などの草双紙や、「俳人百家撰」などの伝記物等も著しています。この句碑は、昭和41年11月に佃の人々によって建立されたもので、「和やかで かたく持ちたし 人ごころ」と緑亭の句が刻まれています。』
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龍神社(竜王弁財天)。
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『御祭神は龍姫大神(豊玉姫神)、於迦美大神・竜王弁財天。
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文政5年住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊玉姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で煮る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易く、ある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保9年(1838)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。
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翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・商売繁盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持つ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々がこの日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期間中の3月下旬頃行われます』
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煉瓦造(大正5年)の神輿庫。
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境内においては異様な雰囲気を放ちますね。
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すぐ横は水路。
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古河神社。
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船魂神社(文久3年(1863)奉祀)。
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左・疫神社、右・疱瘡神社。
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宮神輿庫。
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中央区民有形民俗文化財の八角神輿。サイドの窓からいつでも見れるのが嬉しい配慮です。
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凄く立派で眩しいー♪
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入船稲荷神社。
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明治2年(1869)奉祀。
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住吉神社」HP
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佃住吉講」HP
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