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遠野市内を散策していたら「日本一大仁王像」という標柱が目に入りました。
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もちろん伺います。
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山門。
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貴福山対泉院…『宗派:曹洞宗 大慈寺の末寺。本尊:釈迦如来。当寺は甲州(山梨県)にて南部家一族の新田氏の祖・政持が創建したと伝えられる。南部氏と共に青森県八戸に移り、寛永4年(1627)には遠野南部22代直義に従って遠野に移った。昭和に入って火災のため寺宝、古記録などを焼失しているが、新田家代々の墓が残り、その由緒を伝えている。本尊は釈迦如来で、他に恒久平和を願って釜石市の艦砲射撃の砲弾破片で作られた観音像や岩手の生んだ政治家・田子一民から贈られた平和観音、子安地蔵などがある。昭和55年に建立された大仁王像は高さ5m、重さ5tで右肩に慈母観音が厨子に入って安置されている。』
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由緒には移転とありますが、八戸市にもまったく同じ貴福山対泉院及び福聚山大慈寺が残されています。遠野に移った後、八戸に残された両寺は一時衰退するも盛岡藩主南部利直によって再興され、更に大慈寺に至っては延宝8年に糠塚に宿寺を創建、天保年間には堂宇を造立し本寺を松舘から糠塚へ移すことにするも檀家の関係もあり、松舘は末寺としてそのまま残ります。明治8年に糠塚と松館が同じ大慈寺として独立し、明治21年に糠塚が本寺、松館が末寺となっているようです。
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大仁王像!
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うん?日本一?
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普通の大きさに見えます…覆堂の所為?
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由緒を読んでみましょう。
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大仁王像の縁起…『此の巨大なる仁王像は鹿児島県奄美大島郡瀬町出身で当時東京都墨田区向島三丁目在住の産婦人科医師平瀬雄先生が一大悲願のもと苦節23年の歳月に心血を結集せる渾身の大傑作である。平瀬先生は昭和20年3月東京大空襲の惨状を直視し悲憤慷慨暫し悶々の歳月を送り時を経て遂いに意を決し、戦災死者の冥福を祈ると共に不幸にして優生保護法に依り失われた胎児の悲しい運命に合掌し併せて恒久平和を祈念する具現方法の模索中霊夢により風雨虫害特に火災等の被害に強い佛像の製作を発願したのである。之の完成後は浅草寺に寄進する目的であった。然し製作に要したる年月は餘りにも長く設置条件等にも問題が生じ同寺への寄進を断念せざるを得なかったのである。時恰かもこのニュースをテレビ新聞等にて見聞せる当山の住職は、焼失せる對泉院を復興するため本堂の再建途上でもあり、永久の記念として勧請したいとの事情を訴え、親書を通じ御寄進方を懇請したところ感應道交、不思議なる佛縁天の啓示と言うべきか、直ちに快諾され、急転直下都落ちが決まり遙るばる「みちのく」に北進され、昭和51年5月17日現在地に遷座されたのである。この大仁王像は鉄筋コンクリート造りで身の丈5メートル・重さ5屯もあります。右肩の御厨子の中には胎児や水子の霊を慰める慈母観音が安置され右手には無限の智恵を包蔵する経巻を握り左手3本指は正直・誠実・勇気を具現し、両足下には卑怯の小判を踏みしめ、人倫の原点を諭している異色ある御尊像であり「日本一」たる所以でもある。茲に縁起の慨説を述べ敢えて後世にその威光霊験の頭現される事を信じ、之を彫らしむ。合掌。昭和55年10月吉日對泉院第32世慈覚龍法撰書』
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由緒には歴史の重さを感じますが…
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えぇ~っと…
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重さ日本一?鉄筋コンクリート造仁王像日本一?異色ある造りの仁王像日本一?
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右肩の御厨子。
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慈母観音。
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本堂。
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復興記念碑…『当山は南部藩の家老新田小十郎政持の菩提寺として開創八戸居城57年を経て寛永4年当地に移創され法灯茲に350有年連綿として護持され32世に及ぶ偶々先住戒淳和尚の時昭和13年3月24日不慮の出火に依り堂宇を全焼す32世現住は昭和23年8月晋住以来30有余年只管復興を念じつつ黙々忍從の処俄然桓信徒よりの総意が熾烈化し着手以来僅か5年にして完成昭和51年には本堂新築大仁王像勧請翌52年には庫院を新築引き続き仁王像の覆堂山道の舗装山門屋根の葺換え縁起碑等初期の計画を圓成し得たので茲に代表する役員並びに協力代表者を列記し後世にその偉功を讃う。昭和55年11月吉祥の日 貴福山對泉院32世現住慈覚龍法撰書』
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中興碑(第32世慈覚龍法和尚/昭和56年11月8日・本寺大慈寺現住 大矢慈光建立)。
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六地蔵。
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水子子育地蔵菩薩。
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三界萬霊塔。
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南無六道能化地蔵菩薩。
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その他。
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