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御祭神は日本武尊命、少毘古那神、厳嶋姫命、宇賀之魂命。
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創建の時代不詳ならせるも当村常楽寺の開祖無門和尚仝寺の鎮守として不動明王を勧請。
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巖龍山大聖寺と称し、往時は背後の奇巌を以って神霊を擬し来るが中頃故あり当村羽黒修験源龍院代にて其の別当職を勤めることとなり元禄年間に小友町(現在地)に拝殿を建て文化6年(1809)に本殿建立。
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文化8年御輿堂に成り、明治5年(1872)祭神日本武尊命、少毘古那神、厳嶋姫命、宇賀之魂命を合祀する。
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巖龍神社(祭神:日本武尊)…『巖龍神社の創建の時代は明らかではないが、「小友村勝蹟志」によると、小友村の常楽寺の開祖無門和尚が、寺の鎮護として不動明王を勧請して巖龍山大聖寺と称し、不動巖を本尊としてあがめ、羽黒派修験の源龍院が、別当職をつとめるようになったと伝えられる。元禄年間(1688-1704年)には拝殿が建立、次いで文化6年(1809年)本殿が建立され、不動明王の仏像が安置された。明治5年(1872年)には、神仏分離政策のため、祭神を日本武尊に改め、巖龍神社となった。2月28日に行われている「小友町裸参り」は貴重な民俗行事として、遠野市指定民俗文化財となっている。巖龍神社の背後にそびえる不動巖は、高さ約54mの巨岩で、岩の面が竜のうねった形に似ているといわれ、岩のふもとに不動明王を祀ったので不動巖と呼ばれている。大正13年(1924年)には岩手日報社企画の岩手三景に、昭和25年(1950年)には同社企画の日本百景に選ばれており、古くから四季を感じさせる景勝地として親しまれている。不動巖と巖龍神社は、平成20年(2008年)に遠野遺産に認定された。』
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小友町裸参り(遠野市指定文化財・無形民俗文化財/昭和59年4月20日)…『小友町裸参りの起源は明らかではないが、修験者源龍院仙林(?-1727)が巖龍神社の別当を勤めていた時に不動講を結び、元禄年間(1688-1704)に拝殿を造営した翌年の初不動の日(1月28日)に不動講の数名を名代として裸参りを行ったのがはじまりと伝えられている。裸参りは、不動講を中心として伝承され、古くは旧1月28日に行われていた。講中から当番の宿が選ばれ、次のような次第で行われたと言われている。一.代表の者が神前で鈴を受け取り、振りながら宿に行く。二.参拝者は宿に集まり身仕度を整え、一列となって神社に赴く。三.神社そばの清水にて身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に町を歩き、長野川に至りて更に身を清め神社に戻る。これを3回繰り返す。四.行事を終えた後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事などの相談を行う。現在では2月28日に行われ、腰に注連をしめ、頭に鉢巻をまき、草鞋履きに口に護符をくわえた褌姿の男達が、神社の大鈴をもった厄男(42歳)を先頭に一列となって、各々手に「ぼんぼり」をもち、神社と上宿橋のそばの大般若供養塔の間を三往復して五穀豊穣・無病息災などを祈願する。このような行事は遠野市内では他の例がなく、貴重な民俗行事である。』
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岩手三景不動巌…『巌龍神社の背後の奇巌を不動巌と云います。大正13年時の小友村長奥友信氏時代に、岩手日報社の県内三景十勝募集の企画に応募しましたところ次の3ヶ所が入選しました。一.不動巌(遠野市小友町)一.不動滝(二戸郡安代町)一.玄武洞(岩手郡雫石町)。小友村では同年9月3日、その入選報告祭が巌龍神社に於て盛会に取り行われ、不動巌の頂上からは国旗や提灯を吊り下げるなど里神楽、獅子舞等の奉納が乱舞し夜になっては小学校生徒、男女青年団員の提灯行列が夜の更けるのも忘れての業には村民はもとより近郷近在の見物客の人出で大変な賑いを極めたと記されております。又その後昭和25年10月10日日本国有鉄道釜石線全線開通を記念して再び岩手日報社の日本百景の募集にも又々その選に入り、今尚雄大な不動巌が景勝地として多くの探訪者で賑っております。不動巌は巌龍神社の背後にあって、直立して地を抜くかのように高さ54メートルで正に天を突くような偉容であります。そして老松が點生し四季の風景格別なものがあり、その巌根に清水の湧出する池があって是れを昔から神水と命名しております。尚又池の中には嶋があって不動尊を祀っており、老樹が繁茂して一層の景を添えております。又巌面には龍の昇降するような形状を呈していて、神社の背後にあるものを降り龍、西方小友川の淵の上にあるものを昇り龍と云ってその偉観の雄大さに観る人をして驚かしむるものであります。岩手三景不動巌 仰ぎ見る不動の巌や風薫る 巌龍神社社務所』
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狛犬一対。
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社殿。
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向拝。
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木鼻。
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御神木。
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御神木と不動巖。
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摂社の八幡神社。
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不動巖。
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不動巖の麓に色々と石碑があります。
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忠魂碑。
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頌徳碑。
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庚申塔。
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藤澤直藏先生碑。
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金毘羅大権現、馬魂碑、早池峰大神など。
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不動橋。
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不動橋より。
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参道。
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不動橋のすぐ手前に趣のある建物がありました。
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少しだけ神社付近の街を散策してみると「宿場町・小友」の案内板がありました。宿場町としての面影を残す町並みとのことです。納得。
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宿場町・小友(遠野市景観形成モデル地区)…『小友の町並みは、鎌倉時代、阿曽沼氏家臣菊池喜左衛門が小友の語源と言われる奥友氏を名乗り、奥友館を築いたときにはじまる。室町時代応永24(1417)年には常楽寺の開祖無門和尚が、巌篭神社を創建(例祭日・8月第4土日)、江戸時代には修験者源龍院の奨めで近くの蟹沢金山の採金がはじまり、他地方から多くの人々が集まり賑わいを見せた。寛永(1624)から正徳年間の頃が金山最盛期とも重なって、宿場町としての根底を築いた時代と言う。昭和59年(1984)年遠野市から無形民俗文化財として指定され、2月28日に継承されている裸参り行事は、明暦(1657)年間の修験者源龍院5代仙林による不動尊信仰が、その発端と言われている。延享(1744)年間には、町(道路)の中央に1本の水路が造られ防火性を考慮し敷設された。現在の両側2本水路の元となっているが、これまで明治17(1886)年と昭和11(1936)年の2度にわたり壊滅的な大火災を経ており、その都度先人の努力で復興されてきた。また、大正13(1924)年には、不動巌が岩手日報社の企画による岩手三景の1つに入選、町民は喜びに沸いた。こうして歴史の中で形成されてきた小友の特徴ある2階建民家の町並みや水路、そこで行われる祭典や裸参りといった地域行事、それらが相俟って醸し出される「宿場町としての面影が残る景観」は、平成8(1996)年遠野市が策定した景観形成基本方針で、後世に引き継ぐべき景観として「景観形成モデル地区」に選定されています。平成11年3月 小友町地域づくり連絡協議会 小友探訪会』
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