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「とりやさき」ではなく「とやがさき」です。
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御祭神:天照皇大神・豊玉姫大神・豊受姫大神・誉田別大神・須佐之男大神・大国主大神
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祭典:春祭り4月29日(桜まつり)・夏祭り7月17日(茅の輪くぐり神事)・花巻まつり9月第2金曜:山車・神輿奉納祭、土曜:神幸祭、日曜:講社祭・9月17日例大祭。
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往古より北上川を見下ろす鳥谷崎の高台に、領内鎮護・荒土開発・五穀豊穣の神としてお祀りしたことに始まり、その年代は不詳です。「前九年の役」康平年中(1060)源頼義・義家父子によって、現在の吹張町の地に勧請したと伝えられる八幡神社を、正和2年(1313)稗貫氏が鳥谷崎城に奉遷しました。更に天文5年(1536)往古より城内にそれぞれ鎮座せる鳥谷崎神社・稲荷神社の三社を合祀し、社号を「鳥谷崎座三柱神社」と改称し、俗に「お三社さん」と呼んで尊崇。天正19年(1591)より南部氏の所領となり、鳥谷崎城は花巻城と改称。慶長6年(1601)8月13日、北信愛・浅野長政連署を以って、金剛坊を鳥谷崎神社の別当職に仰せ付け、稗貫和賀二郡の総鎮守と定めました。爾来社殿の営繕、祭典の斎行等総て領主によって行われました。宝永元年(1704)花巻三社祭礼として御神輿渡御が行われ、祭典中は御城内を御用留(休日)し、領民をして祭典に参加せしめ盛大なる祭典を執行しました。その後、明治の末年になり更に町内の三社を合祀し六祭神とし、社名を「鳥谷崎神社」と改称して、益々祭典を盛んにしました。その風習今日に至って俗に「花巻まつり」と呼び、花巻で生をうけた者にとっては花巻まつりは心のふるさとであり、9月の3日間の祭典が近づくと耳に残るお囃子の音に誘われて帰郷し、まつりに参加する人がすこぶる多いそうです。宮沢賢治もこのまつりを愛し、「 方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」と詩っています。
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御由緒…『誉田別命・豊受姫命・豊玉姫命・天照皇大神・須佐之男命・大国主命。謹而鳥谷崎神社の沿革を按ずるに當神社の創立は甚だ古く所謂前九年戦役の際康平年間鎮守府将軍源頼義武運長久祈願の為平素信仰崇敬する京都岩清水八幡宮の御分霊を當花巻の地に勧請せるに始る其後正和二年に至り當時の領主稗貫氏之を鳥谷崎城内に移轉再興し更に天文五年同城内の稲荷神社鳥谷崎神社に合祀して鳥谷崎坐三柱神社と改稱し以て同城の鎮守と定む降りて天正十九年此の地域一帯南部氏の領有に屬するや城名を花巻と改めしも當神社は舊稱を改めずして其儘鎮守と為し信仰崇敬の誠意を以て諸般の經營行事すへて官社官祭の形式を取り殊に慶長五年花巻郡代北信愛の和賀忠親と交戦する際當神社に祈願して勝利を得たる以来一層御霊験荒高となり毎年秋季三日間の例祭には稗貫和賀二郡に令して士民に休業参拝せしめたり其の遺風存續現今に及び所謂花巻祭は毎年殷賑を極め以て神威の顯赫なるを徴證す然るに明治六年花巻城破却の後再度當神社の位置に變更を生じ大正三年現今の社地に社殿を新築移轉せり當神社は前記の如く久く鳥谷崎坐三柱神社と稱したる處明治の代になり町内の無格社八坂神社稲荷神社金刀比羅神社大神宮を合祀せる結果同四十五年單に鳥谷崎神社と改稱す社格は從前鳥谷崎城の鎮守にて明治二年縣社に指定せられたるも同四年郷社定則に據る村社となり昭和年月社に昇格以て現今に至る』
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案内看板より…花巻城鎮守鳥谷崎神社『鳥谷崎神社は、領内鎮護・荒土開発の守護神として祀りしたことに始まりその年代は詳らかではない。その後、鳥谷崎城(後の花巻城)の守護神として城主や城代に信仰され、慶長7年(1602)には、南部家臣花巻郡代北松斎公が新たな社殿を造営し、文禄年間の花巻開町以来続いていた例祭には、ご城内を御用留め(休日)とし盛大な祭典を開いた。これが、今日まで"花巻まつり"として受け継がれている。』。
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花巻城の遺構・遺品『南部義政甲冑(岩手県指定重要文化財)…南部家14世義政が永享11年(1439)に室町幕府6代将軍足利義政の命令に従って永享の乱征討に当って着用したものと伝えられる。南部家累代の家宝であったが、鳥谷崎神社に宝物として贈られた。円城寺門…花巻城主南部政直公が、慶長19年(1614)、和賀氏の二子飛勢城大手門を引き上げて、花巻城三の丸搦手の円城寺門坂に建てたものである。その後、花巻城の廃城により明治6年(1873)に民間に払い下げられた。昭和7年(1932)に鳥谷崎神社境内の東南隅に寄付再建され、同35年(1960)の花巻市文化財指定を受けて、翌年現在地に復旧された。南部利剛公夫人の乗用駕籠…徳川15代将軍慶喜公の姉松姫が南部家40世利剛公のもとへ水戸藩より嫁いだ際に乗ってきた駕籠である。総黒漆塗に葵、金紋が施され、内部には花鳥図の絵画が描かれている。琵琶…南部三十六世利敬公が愛用した琵琶が保存されている。銘秀一槍…南部家の参勤交代のとき、行列に使用したものである。刀匠宮川秀一は、江戸で9年間修業し、「秀一」の名号を許されて帰郷し、翌年の嘉永6年(1853)に刀・脇差を南部藩に献上、藩御抱えの御武具所附刀鍛冶となり、数々の名刀を鍛えた。その他…花巻城内で使用した、太鼓・釘かくし等が保存されている。』。
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本小札藍革毛引威胴丸。
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南部利剛公夫人の乗用駕籠。
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琵琶・本丸の釘かくし・時の太鼓。
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手水舎。
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狛犬一対。
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社殿。
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向拝。
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天水桶。
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本殿(鞘堂)。
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明治17年御造営の本殿には見事な彫刻が施され、名匠高橋勘次郎の作と伝えます。昭和63年に本殿は新たに一回り大きい本殿で覆われました。立派な石垣の上に建っています。
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神輿庫。
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社務所。
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守札所と神楽殿。
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昭和天皇陛下御在位六十年記念事業碑。
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宮澤賢治歌碑「方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる」もありますが取り忘れました。『「み祭り三日」は氏神である鳥谷崎神社の祭礼(花巻まつり)のことで、当時は9月17日から19日までの3日間だった。昭和8年のこの日も快晴で、お旅屋に泊まっていた御神輿の還御の日である。賢治は町内を練り歩く御神輿を見て祭礼を楽しみ、21日に亡くなった。この歌と一緒に詠んだ「病のゆゑにも朽ちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし」の二首は、絶筆と言われている。』
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参道脇にある花巻川口消防組石鳥居寄附人名碑など。
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社務所の入口となっているこちらの門は花巻市有形文化財となっている円城寺門です。
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社務所。
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「延寿」の名を残しています。※延寿寺観音堂(後の円城寺)
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圓城寺門。
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円城寺門について…『「円城寺門」は慶長19年(1614年)に藩主「南部利直公」が、「二子城」(今の北上市二子町)の大手門(表門)を引き上げて、「花巻城」の搦手門(裏門)としてこの場所に移された。この門は、昔この近くに「円城寺」と言う寺があり、その近くの坂に建てられたので「円城寺門」と呼ばれるようになった。また、この門は明治4年(1871年)の花巻城取壊しの際に、北上市更木の「福盛田氏」が払い下げを受け、門を解体して北上川を船で下り自分の家の門として建て直したとされ、その後、昭和7年(1932年)花巻市の軍医「平野立乾氏」が「福盛田氏」から円城寺門を買い求め、鳥谷ケ崎神社境内の東南隅に移した。ところが、戦中戦後の荒廃により昭和30年(1955年)頃には屋根・白壁・扉などは大きく壊れ、わずかに欅の柱だけが当時のままで残っているだけとなり、昭和36年(1961年)市の補助金を受け現在の場所(鳥谷ケ崎神社南東口)に復元され今に至っている。円城寺門は、花巻城でただ一つ残る建物として重要な文化財である。』
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