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御祭神は宇賀御魂神、大宮乃女命、猿田彦太神。例祭6月10日。参道には、両部鳥居、社号標「稲荷神社」(明治34年旧2月10日、願主古川清三郎敬白)、庚申塔(寛政10年6月17日)、朱塗木造鳥居、倉庫(ブロック造)、朱塗木造鳥居三宇、御神灯一対(昭和5年7月10日古川金次郎奉献)、狐像一対(昭和2年8月10日古川金次郎奉献)、木製角灯籠一対(昭和56年7月10日平田森農事研究会奉献)、狐像一対(大正12年旧正月10日斎藤長右エ門、斎藤嘉七奉献)などがあり、本殿前に狐像一対(明治45年6月10日斎藤助三郎奉献、石工金島兼吉)、石灯籠一対(安政6年6月10日古川七兵衛奉献)。更に馬頭観音堂前に朱塗の丸木鳥居、御神馬一対(昭和28年旧4月10日平田森中奉献)があります。
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かつての平田森村で、貞享4年検地水帳によりますと、重光院抱えの稲荷社地1反余が見えます。
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地名の由来となった平タ盛は集落西の字若松を通る弘前道の端に位置し、天和4年の村絵図には高さ2尺・周囲12間と記されており、坂上田村麻呂に討たれた悪鬼の墓であるという伝説があります。その西の小沼は底なしで、鬼の足跡と呼ばれています。
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また、大きさ的に同じものと考えられますが、村はずれの田んぼにある歯塚森(平田森。2~3尺ほどの二ツ盛)が有名で、古く阿闍羅三千坊があり諸人の歯を埋めた塚。掘るとおびただしい数の人の歯が出てくると言います。また、雨乞いをするときに歯もりの塚をあばいて、鬼の歯というものを掘り出すと、必ず雨が降るという言い伝えもあります。
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菅江真澄が次のように記しています…『平田森という村の田のなかに、はもり、はしもり、つるぎもりという塚が三ヶ所にあった。はしもりは村はずれの稲田のかたわらに、その跡ばかりがあり、由来はわからないという。むかし鬼がいたのをうちたいらげ、その鬼の頭をくだき、歯をかきおとしてそれを埋め、塚をきずいて、いま歯もりといっているのだそうである。鬼をきった太刀は塚にこめて、歯もりのあたりにあり、「あそこだ」と教えられたので、田のあぜをつたって、はもりにいってみた。雨乞いの祈りをするとき、この塚をかきあばいて、この鬼の歯というものを掘り出すと、かならず雨が降る。このごろ、日でりで雨がほしかったので掘りおこしたのがこれだといった。みると、牛の歯とほぼ同じもので、いくらか違うようにも思われた。世間で言う竜の歯などでもあろうか。いくつともなく掘りだされていた。』
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当稲荷社は田村麻呂創建の伝説を持っており、慶長年間に字宮本に再建されたものと伝えます。
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社伝によりますと往古草創幾星霜を経て、現在地に慶長年間(1596-1615)に氏子にて再建。正保2年(1645)平田森村開村の際に小兵衛という者一夜瑞夢有りて社地を定め堂宇を建つとあります。延宝9年(1681)堂宮神主山伏行人之覚に、平田森村稲荷堂別当東覚坊と記されています。
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延享元年(1744)に隣の町居村法院より鳥居の寄進あり。文化6年(1809)2月4日と弘化2年(1845)5月13日に再度御厨子並びに堂宇の寄進あり。安政4年(1857)稲荷堂再建。明治4年村社。明治6年に新屋町村の貴船神社に合祀され、御祭神は猿田彦命と大宮姫神とあります。明治8年に村中にて拝殿建立。同42年に氏子達により御本殿改築。同44年神饌幣帛料供進神社に指定。
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大正12年に狭隘のため拝殿改修。昭和26年在来の国有境内地が宗教法人になり神社境内地として無償譲与。同36年拝殿新築、平成3年に台風19号により御本殿並びに境内樹木壊滅するも翌年御本殿を新築。
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馬頭観音。
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庚申塔。
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