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日本銀行福島支店の前身である出張所が明治32年東北で初めて開設されて以来東北と福島の経済に大きな役割を果たしてきました。
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日本銀行福島支店の役宅として昭和2年に建築し、使用していたものを平成12年3月に都市公園として整備するため取得しました。
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建物は、名称を「御倉邸」としてそのまま残し、御倉町地区公園として開園しました。
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公園周辺は、福島藩などの米蔵や船着場があった歴史的場所で、大変美しい水辺景観を有し、川とまちと人を結ぶ中心市街地の回遊拠点となる施設です。多くの皆様のご利用をお待ちしています。
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(以上パンフレットより)
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見学は無料。有料で和室の使用も可能。冷暖房有(有料)。
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ってことで中へ。
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玄関、内玄関、和室(1号室8畳・2号室10畳・3号室8畳・4号室4.5畳・5号室8畳・6号室18畳)、洋室、応接室、書斎、寝室、倉庫、畳廊下、中庭などあります。
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和室5-6号室から阿武隈川を望む。
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応接室に歴史についての説明ほか、色々と案内説明板がありました。
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開設当初の日本銀行福島出張所。明治32年(1899)7月15日、東北地方で最初、日本銀行としては7番目の店舗として開設。店舗は福島一の糸問屋「万国屋」から購入したもので2階建・土蔵造り。全国的にみても早い時期に出張所が開設された理由は、当地が当時の重要輸出品であった生糸や米穀の有数の集散地であり、東北の金融の中心であったため。
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福島支店旧店舗。大正2年(1913)、支店昇格を機に新店舗完成。設計は日本銀行本店や東京駅を担当した辰野金吾博士とその高弟長野宇平治が共同で行いました。現在の店舗は昭和55年(1980)完成。
日本銀行福島支店旧建物…『明治44年6月、出張所は支店に昇格して日本銀行福島支店となり、改築工事が進められ、大正2年には完成しました。福島の明治洋風建築の代表となりました。設計は日本銀行本店を設計した辰野金吾博士です。建設費は、当時で約14万円だったそうです。東南隅にはルネサンス風の屋根のある円筒形の張り出しが見られます。』
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開催にあたって…『信達地方は、江戸時代から生糸と養蚕関係商品の集散地としても全国有数で、東北における経済活動でも重要な役割をになっていました。日本銀行としては大坂(明15)・小樽(明26)・京都(明27)・名古屋(明30)に続き、東北では初めて、全国では7番目に福島出張所が明治32年(1899)6月6日大蔵大臣認可、7月15日より業務を開始しています。』
日本銀行の開業…『日本銀行は欧州先進国の中央銀行制度にならって設立され、明治15(1882)年10月10日、永代橋際の旧北海道開拓使出張所の建物を店舗として開業した。発券制度が整備されるまでには、それからなお若干の時日を要したが、貨幣制度の統一と兌換制度確立の制度的基礎固めが行われたという意味で、日本銀行の創立はわが国経済近代化の礎石となった。』
各国の中央銀行設立年…『1668(スウェーデン)・1694(イギリス)・1800(フランス)・1814(オランダ)・1850(ベルギー)・1875(ドイツ)・1882(日本)・1893(イタリア)・1913(アメリカ)』
日本銀行の設立(明治15~)…『西南戦争の勃発(明治10年)に伴い、戦費調達のため政府紙幣や国立銀行紙幣が増発されたことなどから、激しいインフレが発生した。これは厳しい財政緊縮と紙幣の回収整理により収束されたが、その過程で、兌換銀行券の一元的な発行によって紙幣の乱発を回避し、通貨価値の安定をはかることの必要性が認識され、明治15(1882)年中央銀行としての日本銀行が設立された。』
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供待…『人力車の車夫の待合室として使用していました』
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阿武隈川側から御倉邸。
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阿武隈川。
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阿武隈川舟運図(福島河岸-舟運を安全に運行するための水路図)。
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『福島城の南に隣接して設けられた福島河岸を起点とした阿武隈川下流舟運のうち、陸奥国伊具郡丸森村(現在の宮城県丸森町)の水沢河岸までの川筋を描いたものです。本図の原図は軸装された巻物仕立てで、幅が約30センチ、長さは約13メートルもあります。明和6(1769)~7(1770)年ごろの様子を描いたものとみられており、製作者は上総屋幸右衛門であるとされております。丸森までは、浅瀬や急流が多く、船底の浅い「小鵜飼船」を使って運んでいました。その後、積み替えを経て松島湾で千石船に移され、年貢米は江戸へと運ばれていました。天神橋のたもと辺りから手前に城主蔵・御城米蔵・上総屋幸右衛門船会所・上杉弾正大弼様御蔵そして宝林寺が描かれております。』
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福島河岸蔵…『◆歴史…江戸時代には年貢米を江戸に運ぶために、阿武隈川の舟運が利用されており、現在の御倉町(福島県庁裏周辺)には、福島藩や米沢藩の米蔵が立ち並んでいました。当該蔵は、旧米沢藩の米蔵と伝わっており、舟運による運搬をする際の一時保管場所として利用されていたと考えられております。明治期に地域で移転・改築し、活用されてきましたが、福島河岸の歴史を伝える蔵として、また、賑わい・回遊性を向上させる施設として復原いたしました。(外壁のレンガは、明治期の改築の名残です。)◆概要…復原工事にあたっては、極力保存材料を使用し、現代の工法による施工で、当時(明治期)の外観復原を目指しました。柱や梁は、舟運時代のものを用いて、復原しております。外装のレンガは、明治期の改修による名残ですが、地域の歴史を伝える意味で再現しております。土間や板の間、北側の扉等、一部展示、活用するために変更を加えております。下屋も同様に今回新たに設置したものです。規模母屋約33㎡(約10坪)下屋約14㎡(約4坪)◆館内図…休憩、展示に利用できるよう改修しております。約8畳の板の間と約12畳の土間に分かれております。当時の柱、梁がご覧いただけます。天井の竹こまいを復元しております。天井高く積み上げられた米俵を想像すると、当時の姿が思い起こされます。』
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旧米沢藩米蔵(復元)。
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旧米沢藩米蔵復原事業<2010>…『旧米沢藩米蔵復原事業は、御倉町地区公園(福島市御倉町1番78号)に福島河岸の歴史を伝える蔵を復原し、既存の御倉邸と連携させ、市民及び観光客を誘導する文化交流施設として整備することで、新たな拠点として中心市街地の活性化、賑わい・回遊性の向上に寄与するものであります。※「当時の材料を使って、原型に戻す」の意で「復原」を用いております。(外壁のレンガは、明治期の改築の名残)。中心市街地南部は江戸時代から阿武隈川を利用し「舟運」が盛んに行われ、福島の経済発展に重要な役割を果たしていました。現在の県庁裏周辺(福島城近く)には、人や荷物の揚げ下ろしをする所「河岸」が設けられ、城主蔵(板倉藩)、御城米御蔵(年貢米)はもちろん、会津藩、上杉弾正大弼様御蔵(米沢藩)などの廻米御蔵が川面に添い建ち並んでいました。今その川岸は、昔の石積み護岸の船着場に再現されています。明治32年、東北初の日本銀行出張所(福島支店の前身)が開設され、昭和2年には支店長役宅が建てられました(戦前の日本銀行の役宅として現存するのは福島と新潟(昭和8年築)の2つだけであります)。福島市では旧役宅(御倉邸)を御倉町地区公園として整備し一般に開放しています。また、園内には、お休み処として「おぐら茶屋」が設置されており、地元協議会によるもてなし(朝食や土産物などの販売、運営)が提供されております。旧米沢藩の米蔵と伝わる蔵は、明治に移転・改築し、活用されてきましたが、今般、所有者の意向により取壊しが決定し、歴史に幕を閉じる運命でありました。しかしながら、歴史・伝統・文化は、地域住民とともに伝承し、次世代に引き継ぐことが重要であることから、市では歴史・地域遺産である米蔵を活用したまちづくりを推進し、都市景観の魅力向上と中心市街地の活性化を図る施設として整備することを決定いたしました。』
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蔵内。
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一坪博物館…『私たち「福島の城下まちづくり協議会」は、城下町であったこの地区の歴史と文化を大切にし、まちの賑わいと回遊性の向上を目標にまちづくりに取り組んでいます。こちらの「一坪博物館」は、場所をお借りして、歴史・文化を感じさせる物の展示、この地区の史跡、名店、名物の紹介をしておりますので、ごゆっくりご覧ください。また、こちらをご覧頂いた後は、地区内を散策していただけると、この地区をより楽しんで頂けると思います。』
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ごゆっくりご覧ください…って言われてもこれしかなかったんですけど(笑)せめて案内板の説明にあるように天井高く積み上げて欲しかった。
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