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環七通りと日光御成街道(清水坂坂上)が交差する角(元馬坂交番跡地)にあります。元々は西音寺持ちの牛頭天王社で、太平洋戦争以前は環七通りの真ん中ほどにあったそうです。
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境内は一段高い位置にあり、入口の鳥居からは直角に社殿が配置されています。
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コンクリやマンホールがかつて交番だった名残りを忍ばせております。
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小さい神社ながらも綺麗にされており、信仰の篤さを伺えます。
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狛犬。
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狛犬の台座に昭和15年の紀年銘。
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境内にあった八雲神社略由緒記。
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『八雲神社は近世には、真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の新編武蔵風土記稿に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社の末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和十六・七年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。八雲神社は、牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祗園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は、須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが、明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも、昭和十四年頃以前は、テンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは、日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病避け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれる縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある。講中一同』
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牛頭天王図がありました…私のイメージとはちょっと異なる(笑)
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紀年銘天明4年(1784年)の庚申塔一基。下部には三猿が彫られています。
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また、「是より左りいたばし道」とも彫られており、江戸時代より追分碑としての役割も果たしていたのでしょう。
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