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東京都千代田区神田須田町。
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おたぬき様のおやしろ柳森神社。
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御祭神は倉稲魂大神。
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長禄2年(1458)に太田道灌が江戸城の鬼門除として多くの柳をこの地(現在の佐久間町一帯)に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社。万治2年(1659)の神田川堀割の際に現在地に移り、柳の樹も堀の土手に移植されて江戸の名所となりました。
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『今を去る五百余年の昔この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457)太田道灌公江戸築城の時その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ、神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった其の後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり其の造営物は大正12年9月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し同年5月15日楽慶大祭を執行した次第である。』
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神楽殿。
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本殿。
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福寿たぬき尊像。
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境内の福寿社はお狸さんと呼ばれており、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したと伝わります。
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福寿社。
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こちらの狸の台座は富士塚の一部かも。
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おたぬきさん福寿神御由来…『江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍徳川綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって、江戸城内に福寿いなりと称して創建された。桂昌院様は、京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公のご生母となる。大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祠されました。開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する、”おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。』
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幸神社。
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御由緒抜粋…『幸神社は元芝増上寺大門付近にあり、岸のいなり、幸稲荷等と称されていました。ご創建は第百代御小松天皇の御代、足利義満の金閣寺と同じ頃とされています。増上寺の寺域拡張の為、岸町の住人は神田に代地を受けて移りました。今の富山町の一隅に一祠を建立し、富山町東松下町五百余戸の氏神と祀りました。昭和二十年太平洋戦争一段と激しくなった頃、堂守りの某が暮夜密かに柳原宮司を訪ね、着物の袖に巻いた御神璽を示し、戦災からお守りできなくなったので、こちらで預ってほしいとのこと、一度は断ったが再三の頼みによりお受したのですが、その直後の空襲で富山町東松下町一帯が灰燼に帰してしまったのは単なる偶然だったのでしょうか。正式には昭和二十二年当社に合祀されました。』
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金比羅宮。
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金比羅宮の隣…水神、厳島大明神・江島大明神。
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明徳稲荷神社。
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秋葉大神。末社等にも取り壊された富士塚の一部が使われているのがわかります。
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13個の力石群は千代田区の有形民俗文化財。
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『「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。また「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
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この境内にある「力石」は、大正年間(1912-1926)、当時この道の力士として有名であった神田川徳蔵こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で著名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治(次)郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。これ等「力石」は、江戸・東京の若者達の生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。』
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百度石。
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富士塚があります。神田柳森富士。
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『柳森神社は、延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を、合殿・合祀しました。また「東都歳時記」には、天保期(1830-44)ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らかの理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年(1930)に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群は、この時に再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年(1960)に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山を築き、この周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。富士講とは、浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は、江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には、多くの講社が姿を消していきました。したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では、現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、「下谷坂本の富士塚」(台東区)、「豊島長崎の富士塚」(豊島区)、「江古田の富士塚」(練馬区)は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。「富士講関係石碑群」は江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。』
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各石碑の名称/作製年代/寸法(高×幅×厚、単位cm)/作製者。
1.北口富士分教会の碑/昭和5年11月改筆/83.5×79.4×7.5/不詳
2.神田八講の碑/大正14年6月再建/141.5×67.5×13.4/神田八講
3.北口神田講社の碑/昭和5年6月1日/139.5×64.2×12.7/山京講
4.小御嶽大神の碑/不詳/61.0×35.0×7.0/不詳
5.三桂乃大神の碑/不詳/85.0×85.0×37.0/不詳
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