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御祭神は武甕槌命。
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正保2年(1645)、3代藩主津軽信義が勧請と伝えますが(棟札あり)、それ以前から存在していた相当古い一私社と言われています。由緒等は不明ですが安東氏との関連性もあると考えられています。
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元禄3年(1690)には駒越組に属しています。同年諏訪明神の神官佐々木常陸(源氏の子孫。※大秋村諏訪宮の棟札には佐々木常陸源久永の名があり。)が寺子屋を開設。宮地及び諏訪林の地名は諏訪明神の所在地に由来するといいます。
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菅江真澄が次のように記しています…『山崎というところに社があって、武南方彦命をうつしまつる祠(諏訪神社)は、消え残った雪にうずもれ、とるぬさを吹く風も寒かったが、鶯の声がのどかにきこえ、木々をつたっていった。』
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元禄16年(1703)に4代藩主信政が領内に薬草の植付けを行いましたが、宮地村には朝鮮人参が植えられたそう。
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天照皇大神宮が彫られた石碑(明治18年)。
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手水鉢(寛政8年6月25日)。
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上から見たら手水鉢自体も彫られた穴の形もハート型に見えました。
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境内の案内看板より…『諏訪神社の祭神は建御間名方神。持統天皇の5年(691)降雨の災難の時、諏訪神社の神を祭らせたとあり、古くから風神としても信仰されていたことを思わせる。鎌倉時代、幕府と密着して興隆が計られ、武士の間に軍神として広く信仰され、ついで庶民の間にも狩猟神・農耕神として広まるようになった。津軽地方の諏訪明神信仰も鎌倉時代に始まる。当社は津軽氏時代の初期から一私社となっているが、それ以前の安東氏との関わりを持つ。岩木町には、安東氏の古戦場である高館山、狼倉館、また安東氏供養の板碑があることより推して、一私社ではなかったと察せられる。正保2年(1645)津軽氏三代信義公が社壇建立、寛文8年(1668)四代信政公神楽殿建立があり津軽氏の尊崇が篤く、鷹狩り時には、当神社で神事を行っていた。宮地の地名も「宮の地」に由来し、当神社によるとされる。現在も名残りを語る清水があり、この神社に奉仕していた佐々木氏の子孫が飲料にしている。明治9年(1876)この地に諏訪小学校(岳暘小学校の前身)が建てられ、大正14年(1925)現農村公園となっている地に移るまで岳暘小学校の所在地であった。』
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諏訪神社の向かいに「岩木村役場跡」という標柱がありました。
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こちらは同地区の程近い場所にあった堂宇と石碑(紀年銘文化)など。
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天明の大飢饉(石碑によると天明3-4年)の餓死菩提を弔うもの。
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