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浜町の北は日本海に向けて弁天崎が突き出ています。
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鳥居横にある浜町の標柱…『古くは海士町(漁師町)の一部。後に網干場に沿って屋並がつくられ、貞享4年(1687)の検地帳から浜町の名が見られ、戸数50とある。藩政時代に年貢米を収納した御蔵や、弁天崎(胸肩神社付近)に御番所などがおかれた』。
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この北部弁天崎に鎮座するのが胸肩神社。
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御祭神は多紀理比売命、市杵島比売命、多岐津比売命。例祭日6月14日・祈年祭4月14日・新嘗祭11月14日。
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寛永年中(1624-1645)州崎建設のとき町奉行(正式には町奉行ではないらしい)田中兵庫助が勧請。その後、正保元年(1644)鰺ヶ沢町中で再建、元禄3年(1690)再建。旧村社。祠官工藤家の旧記留書実数覚によりますと、貞享年中より30年以前大波のために宮社残らず流出とあります。宝永元年(1704)10月22日本庄治郎兵衛・宮本四郎兵衛が町奉行へ社殿再建を願い出ていますが、これは元禄16年11月24日の大荒れで御堂及び社回り波除けなどが流出し、神主さえ暮らし兼ねる状況であったためですが、町中の人々は生活に困窮していることから普請することができないから、建築費を下付してほしいという趣意でした。
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御本尊は弁財天であり、かねてより弁天様と呼ばれていました。御祭神からしても港に近い鎮座地からしても、海上安全や大漁を祈願して祀られたものとわかります。慶安の絵図では石垣をもって区画され、菅江真澄の絵では鳥居の後ろに木が見えます。明治20年代までは社殿西方に常灯があり、毎夜正面が点ぜられていました。このころ土岐蓑虫の絵によりますと、社殿は海にせり出しているように描かれていることから、明治以後も浸食が止まず、現在地まで社殿が下ってきたと考えられます。また、米町の神明宮の由緒によれば、神明宮本社より少し高い場所に旧毘沙門堂があり、明治6年に廃堂となった後、仏像は弁天崎の胸肩神社に遷したとあります。
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なお、同社には塩釜神社が合祀されていましたが、明治6年に本町八幡宮に遷座しています。同4月村社。
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弁天池等はありませんでしたが隣には龍神宮がありました。
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同社地内で、胸肩神社と平行して鎮座。
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社殿内。
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