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鰺ヶ沢駅前に鎮座。
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かつての舞戸村で、西浜街道が東西に横断していて交通量が多く、古くは七里長浜沿いに十三に至る十三道の拠点でもありました。
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貞享4年検地水帳によりますと、同地区に稲荷堂地と八幡堂地が見えます。
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御祭神は譽田別尊、倉稲魂命。稲荷神社を合祀しているようです。
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青森県神社庁によりますと、左衛門尉、紀直庸、応仁の乱のため、主君である四位大宰大弐に従って京を逃れて鯵ケ沢に至ります。
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文明9年(1478)大弐死去後、直庸は舞戸郷に移り、小社を建てて主君の霊と先祖代々の氏神を奉齋。天文年間(1532-1555)3代直芳が紀を木村に改めて八幡宮を勧請。
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慶長年間(1596-1615)木村相模が再興。また、延宝7年(1679)舞戸・館・田浦村の3ヶ村にて再建。
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享保(1716-1735)の火災により、海沿いから現在地に移築されています。
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藩主津軽信寧公により、明和3年(1766)には赤石組鎮守・祈願所となり、明治6年に郷社に列格。
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境内にある案内板より…正八幡宮由緒『天文年間(1532年頃)木村右衛門勧請。慶長年間(1596年頃)木村相模再興。延宝7年(1679)舞戸・館・田浦の三ヶ村にて再建。明和3年(1766年)7代津軽藩主津軽信寧公により赤石組(現在の鰺ヶ沢町・深浦町・岩崎村)53ヶ村の鎮守祈願所と指定される。明治6年(1872年)郷社に列格。明治12年館・元田浦(上野)鎮座の稲荷神社2社を合祀する。祈年祭4月5日・例大祭7月5日・新嘗祭12月5日。』
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菅江真澄が外浜奇勝の中で次のように記しています…『上野、坂本、舞戸と過ぎ、鯵ヶ沢の里に近づいて、古川の橋にたって眺めわたすと、左手に神社が見えた。正八幡宮の額は坂上田村麿が書いたと言い伝えているから、由緒ある社にちがいない。鯵ヶ沢の港につくと、田中町、七ツ石町の間に醒殿川というながれがあった。その名の由来を尋ねると、「ここに大きな鮫が、夜分、寄ってきました。ある人の夢に、その鮫は食べてはいけない、漁の翁源五郎が海にはいって、いま魚となっているのだと告げられたので、やがて小さい祠をつくって、神とまつったのです。それで、これをさめ堂とも申しております」と答えた。』。このことについては『青森の伝説』にも同じ内容が書かれています。
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立派な手水舎。竜口がかっこいいです。手水舎の竜口が蛇口の由来なんだよ(←いきなり神社雑学)。
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社務所。
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御大典記念奉納馬(平成2年11月)。
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末社。飛龍宮もしくは稲荷宮かな…。
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森山君牌(明治20年9月9日)。
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平和之礎碑。
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蒲田翁碑(明治20年)。
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幸神碑。
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