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温川方面に向かう国道102号線沿いの左手に昭和37年旧6月12日、平六氏子一同建立の石造大鳥居があり、そこから50mほど参道を行くと、境内は用水路と小高い山林に囲まれ、その中央奥に南面して二間に四間ほどの切妻屋根の妻入口の社殿が建てられいます。
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かつての沖浦村の枝村として葛川村や平六村が見えます。葛川村は享保年間(1716-1735)には折戸村とも呼ばれていたそう。支村として東方に平六があります。黒石城下までは遠く、道も険しかったことから、経済的には弘前藩領とつながり、浅瀬石川の橋を渡り、山道を琵琶平から小国村、更に国中と呼ぶ唐竹村や柏木町村に出て、産物を売り、日用品を買っていたそう。
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平六は江戸中期に拓かれたと考えられていますが、津軽為信と戦って敗れた南部一族の落人大光寺(北氏)六郎と住民の娘との間に生まれた平六という者が開拓したという伝承もあります。また、坂上田村麻呂が蝦夷対戦に平地を目指して進軍中に、方角を占ったこの地を平陸(へいろく)と命名し、これが平六に転訛したという伝説も残っています。
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砂子沢にある大山祇神社はかつて山神堂と称していました。明治初年に改称された大山祇神社は平六神社とも呼ばれています。本殿は社殿内奥に安置されており、その横に古いものではありませんが高さ2mほどのもので、黒石市花巻の人が彫ったといわれる荒削りで素朴な一木彫りの物凄い形相の鬼の彫像が祀られています。また、百万遍に使う数珠や寛保2年の棟札(願主下渡村長吉)もあります。
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竹館村誌より…『祭神:大山祇命。由緒:往古田村麿将軍夷狄を追撃の時山根通りを越えんとせしに一本の標石あり「右へ進めば陸中の方近く左へ行く時は太洋に出づべし」とあり、将軍暫し考へ左折す。是に由りて平地を降らんとて携へたる鉾石を堺目に一神社を建立大山祇神社と称して進軍せりと、右故実により平陸と名づけしをいつの間にか平六なれりといふ』
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