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御祭神は闇おかみ神。
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青森県神社庁HPより由緒…『明和7年(1770)に伝書に依ると、「浅瀬石城主瑞夢の御託宣あり、大同2年深山高羽の獄に鎮座す。今吾が宮所を建立あらば津軽六郡の内、主領三郡は汝を領主と使わしむ也」。天正5年(1577)正月2日の暁、告験有るに因りて瑞喜骨髄に徹し4月遡日、一宇の宮祠を造立す。其の後、大浦御所為信公六郡を御掌握に依りて社領15石の御朱印を賜わる。其の後、信政公より御分地有りしより先君十郎左衛門信英公御領地となる。明和7年(1770)、主君の武運長久国家静謐の為、四季の神事仰せつけ御神楽料として良米三俵、青銅六拾目永代御寄付有り、旧黒石藩主の祈願所であった。浅瀬石川ダム建設のため昭和55年4月、現在地に移転す。』とあります。
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かつての沖浦村にあった神社で、宝暦9年(1759)の黒石神社書上帳によりますと、正徳元年鎮座の稲荷社と貴船神社がみえます。沖浦村の貴船神社は西南高場山の中腹権現平に鎮座していましたが(一の渡から約6km北の山中)、第二次世界大戦後に虹の湖の北の丘上に移されています。また、郷土史によりますと『此處の神様を俗に十湾田様と呼び本来の御神体は大蛇であるとされ今でもこの附近の山地に大蛇が棲んで居り村人の二三は實際見たと云う事を極力主張し中にはこれを見て気を悪しくしたと云ふ者さへある。該神社は昔浅瀬石町の上手の河畔にあったもので、一ノ渡部落人の説や神社の縁起書を見ると、昔浅瀬石の城主千徳大和守が大身とならぬ前、一夜十湾田様のお告げがあり「汝吾を祀らば必ず津軽六郡の主となるべし」と、そこで大和はこれを深く信仰し浅瀬石川の邊(今尚社地あり)に社を建てて深く信仰したのであったが、後に粗忽な取扱ひをしたので今度は津軽藩祖の為信に意を移しお告げをして吾を懇切に祀らば津軽の大守となるべしと云ふのであった。果たして浅瀬石は為信に滅ぼされ為信は全津軽を取った。そこで為信は該神を今の處に祀ったのだと尤もらしく謂ふ。この神様はもと高場山の頂上の萢邊に祀られ今尚二三の小沼の跡がある。今日の社地は其遙拝所附近の萢地を目懸けて神様は今の地に自ら移ったものだそうだ。どこ迄も沼地を慕ふ神様である。矢つ張り「トーワタラ」でふアイヌ語の岩ある水澤即ちストーンサークルを置いた池沼と云ふ意味から移行した名によるのであらう。』。このことについては『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)にも詳細な記述がされており、浅瀬石川系の十和田様の代表は青荷沢の十和田宮で、戦後に移された後も旧社に対する信仰が根強く、現在も旧社の近くに社殿と鳥居が建ててあると書かれています。また、貴船神社由来伝記についても書かれており、『例の譌妄の造言なれども、当社に伝えて俚人の深く信ずることなれば其の要を左に抄す。貴船神は無形有実、御名を闇おかみと申し、上は天子より下は庶民に至るまで晴雨を祈請する大神にして、瑞応勝れて云うべからず。そもそも当社は津軽・糠部郡の堺、耕檀岳と云える霊山あり。地神五代を祀り奉る。山中に湖あり。十湾沼と号す。(以下省略)』などと書かれています。更に『津軽ふるさと散歩』では『旧一の渡の集落の跡から左手の山道をのぼって雷山に進むこと4km余、大規模な養鶏場があり、さらに2km進むと青荷沢の小集落に至る。ここまで案内したのはほかでもない。道から少し下った所に鳥居が見えて小祠がある。十和田宮で、これは本宮ではなく、さらにブナ林の中を数百米下ったところに本宮跡があり、現在はブロック積みの小堂である。藩政時代にはうっそうたる杉木立の中に池沼があって、参詣の人がサンゴを打った場所は、石垣、石段がいまなお残っている。杉を切り払ったために池沼が干上がってしまった。昭和29年に虹の湖のわきの丘上に移され、さらに黒石旧市内に移されている。』とあります。
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上記の由緒と同じですが、貴船神社由来記によりますと高羽岳に鎮座した神霊が天正5年(1577)に浅瀬石城主千徳大和守の夢枕に現れ、大和守が社殿を建立。後に津軽為信が社領15石を寄進。国誌によりますと正保3年(1646)の棟札によりますと、惣社神主小野川遠江守と当宮祠官盛田備前守が十湾山貴船宮精舎一宇を造営したとあります。明暦2年(1656)以後、黒石領主の祈願所となり、明和7年(1770)に新宮造宮あり、武運長久国家静謐、惣神社への四季の神事が命じられ、神供料として米3俵・青銅60目が永代寄進されました。
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下部は補修してるけど大きくて立派な社号標。
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拝殿の神額には「十湾宮」とあります。十湾とは十和田のことです。上記のように、当社は古くから十湾田様と呼ばれていて、浅瀬石川流域の治水・灌漑の守護神として尊崇されてきました。また、雨乞・雨止の祈祷所としても大変有名で、分銅組若者日誌(黒石地方誌)の嘉永6年(1853)5月24日の記事によりますと、弘前・黒石の藩主がここで雨祭を行わせたとのことです。
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本殿とその横にあった小祠。
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少名彦神社の木札守があり、2体の坐像がありました。
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よく見えなかったけど、大日如来像と…虚空蔵菩薩像かな。だとすればそれぞれ本地仏として神札と一致しますね。
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