イメージ 1
相内郵便局前の道路を横断し石段を上った丘陵上にあります。
イメージ 2
十三山湊迎寺の末庵で浄土宗。本尊は阿弥陀如来。正徳元年(1711)順宗の草創(新撰陸奥国誌)。陸奥古碑集によりますと、蓮華庵の建物は俗称山王坊の地より移転したものと伝えます。境内には禅林寺跡から発見されたという延文年間(1356-1361)の板碑が5基があります。
イメージ 3
寛政8年(1796)にこの付近を訪れた菅江真澄は『外浜奇勝』の中で「人の屋のしりよりしてゆくに庵あり。延文など、ふるき石のそとばたてり。」或いは「沢奥に、山王坊とて寺のあともありき。(中略)かの沢のそこに、としふる石碑どもまろびうもれたししを、近き世に此里のところどころにもてはこび建しなどかたり」と記しています。
イメージ 4
イメージ 5
蓮華庵の境内には中世の供養塔である板碑5基が残されており、そのうち延文2年(1357)銘をもつ板碑1基、更に永和の年号(1375-1378)とみられる板碑1基が確認されています。
イメージ 6
板碑には阿弥陀如来を示す種子(キリーク)、八葉蓮弁に囲まれた月輪や六字名号が刻まれており、板碑は時衆(時宗信者)と熊野信仰に関係が深いとされています。
イメージ 7
イメージ 8
中世にこの地を支配した豪族安藤氏は時衆であり、阿弥号をもつ一族の名が時衆過去帳にも記されているそうです。また、蓮華庵の板碑は鰺ヶ沢町、深浦町折曽の関・北金ケ沢にある板碑群と共通する部分が多いことも判明しています。
イメージ 9
特に関の板碑群には安倍季□、安倍是阿など、安藤氏の別姓である安倍を記す板碑が2基含まれており、更に安藤氏の所領が折曽の関一帯にあったことが諏訪大明神絵詞により明らかとなっています。蓮華庵の板碑は安藤氏関係者により造立されたものであり、十三湊・山王坊のある十三湖一帯を安藤氏が支配したことを証明する一級資料。
イメージ 10
イメージ 11
蓮華庵の境内には菅江真澄が記録したとおり、山王坊一帯から集められた中世の五輪塔や宝篋印塔、無縫塔が本堂横の覆屋や墓地内に納められています。
イメージ 12
イメージ 13
中泊町博物館にあった複製品。
イメージ 14
イメージ 15
赤痢死者合祀墓。
イメージ 16
イメージ 3
イメージ 2