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蓬田城址。
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蓬田城史誌…『緑一色鬱蒼とした杉林・樹齢450年の老松が聳え立つ東西に、水壕・空壕が設けられ、奥地に辨財天宮があり、鎮守八幡宮地に本丸があったと言われています。蓬田城は1238年鎌倉時代に築城され、藤崎城主安東氏の一雄潮潟四郎道貞居城であったと言われています。相馬氏は1185年平家が屋島の戦いで滅亡、福岡から流れ流れ安東氏の庇護により、平将門8代目相馬佐伝四郎則政が蓬田城主となり安東氏の配下として行動した。南部所領となって、奥瀬建助氏が居城し、数代を経て文明の頃、相馬氏蓬田越前守則政が城主となり、凡そ100有余年外が浜一帯を支配し、十三湊を良港に日本海貿易をはじめ朝鮮・中国と国交し文化と産業経済繁栄の礎を築かれた。しかし、天正13年3月27日知謀と謀略の優れた津軽為信公に、城を明け渡し南部に逃れる。後に、蓬田城主相馬小三郎・平次郎兄弟が、五稜郭戦争に出征の時、先祖を祈願するため宗像大社から分神してきた額を八幡宮に奉納されました。700-800年の歴史と伝統、由緒ある蓬田城は山あり川あり海辺近く、風光明媚な城下町であった。昔を偲ぶとき、先人の遺産に感謝し、流風余韻に前進すべきであることを望む。平成14年8月吉日 氏子総代 山本兼光』
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奥に見える森全体が城郭のようです。
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蓬田城の略図というのがありました。丁寧過ぎて逆に見難い(笑)
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土塁や堀跡に関しては素人目でもわかりやすいものでした。
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図を分割して掲載しておきます。
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『これは、蓬田城址顕彰協賛会の依頼(昭和45年)により成田末五郎氏が3ヵ年の調査に基づいて作成したものである。その解説は次のとおりである。一.蓬田城は標高8-15mの地帯に東西約1km、南北約800mに亘る小丘陵地に作られた大館と東西約700m、南北400mの所に作られた小館と2つの拠点をもっている。大館は規模が大きく時代的に新しく、小館は小さく古い。大館は南北朝から室町期で、小館は鎌倉期のものか。二.この館周辺は現在の標高5-8m辺まで入江で、其後隆起して海水が減退したものと見える。従って現在の渚の線から1km入りこんだ所まで蓬田川も、阿弥陀川も船の出入りがあったと見られる。三.大館はA、B、Cの三部に区切られ、その間に水壕、或は空壕を設けたと見え、D、E、F、G、H、Lの出丸が想定される。四.元の館神弁財天宮址はA郭にある。今の神社八幡宮は明治初め、元の港口近くにあった(今の公民館の所)。明治の初め諸社を合併して現地の八幡宮に移した。A郭内からは古銭、神器等が出土したという。五.現在空壕の址はB郭の東北部、A郭の西部、出丸D、E、Gの基部に深く残っている。その外、埋め残された浅い堀址も郭の間に想定される。六.Eの出丸は鐘楼堂の所と伝えられ、独立した郭である。これに対応するように東北に小規模の出丸がある。七.東南の大きな出丸は船着場とも考えられる。八.Kの出丸は長兵衛といって、下層に縄文後期、上層に土師器、鉄滓を包含している。九.Lの出丸は馬捨場という。これは後世馬の死骸を捨てた所からついた名らしく、昔は出入の船の荷揚場か。十.Hの出丸は16.6mの最高地で見張台か燈火台があった所か。十一.Dの出丸は西方の水を護る出丸である。蓬田川の上流2km位の所から、ここに人工的に水路を作り、ここに古溜池へ注いで、これを北廻りと南廻りして東へ流した人工的防衛の施設と見えることができよう。この間股松まで約1.5km人工的な疏水路である。途中に溜池の跡が3つ想定される。股松はその目標として保護されたものであろう。三又であったが1本は近年の台風で倒れた。根本の周4.82m(東の方2.96m、南の方2.93m)、明治末期台風で倒れたのは6柵あったという巨松(黒松)であった。十二.鳥屋の松、この付近蓬田川の縁の崖の上に巨松がある。「とやの松」という絶壁によりかかってその北東に細長い低い土地がある。ここが鳥待場が設けられた鷹狩の好適の地である。十三.小館は6-7mの丘陵地でところどころに溜池がある。』
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蓬田城跡之碑…『山を負い海を臨み清流あり美田万畝の条件を備えるこの蓬田の地は早くから先住民族の居ったことや又金光上人行脚の地として七、八百年の昔から文化の香のただようた所であります。蓬田城は何時の頃誰によって築かれたかは不明でありますが南北朝時代安東氏一族潮潟四郎道貞の居城であったとも云われておりますが大光寺田舎舘等と共に明応年間築かれたともいう一説もあります。徳治二年頃相馬佐伝四郎則一安東氏の一雄として居り後北畠支配下として行動し更に南部所領となってから奥瀬建助が居城し文明の頃相馬氏蓬田越前則政是に替り数代を経て天正十三年三月二十七日津軽為信公に領せられる迄凡そ百有余年この辺一帯を支配したわけであります。後津軽氏これを廃城としたので荒廃し濠や輪郭によって僅かに昔を偲ぶばかりになりましたが其の造りの大きいことからも相当のものであったことが判ります。されば昔の武将が築城の場所として何故大舘を1,00撰んだかと云えば古来築城の条件である戦術的政治的将又文化的産業振興の適地であるからであります。吾が村は立派な文化産業を持ち得る地理的条件を備えていることを歴史が証明し祖先が訓えている事実を覚えなければなりません。同時に吾々は今城こそなけれ鎮守八幡宮を中心にして研究を積み努力を重ね此の条件を最大級に発揚して昔の城下町だった発昌振りに再び返すべき責任を感ずるものであります。我々部落民の意欲は社殿の新築境内の拡張神域には桜花を日と共に盛り上げて参りました。緑一色に蔽われた梵珠の山脈を背景として数百年の齢を重ねた老松古杉の間に絢爛として咲き誇る桜花の如く此の地の発展が開き匂ふよう昔を偲び今をかえりみ子々孫々への訓として刻むものであります。維持正に明治百年祭の記念すべき年に当る。昭和四十三年八月吉日 協賛会 後裔相馬利忠撰文敬白』
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字汐越にある八幡宮で、かつての蓬田大館城の館神であったといいます。元文7年(1741・寛保元年)に脇宮太夫が再建してからは蓬田村の氏神として祀られました。御祭神は誉田別命。例祭日は5月15日。本殿・拝殿を明治40年5月に改築しています。末社には火難消除のために建立された稲荷宮、漁師繁昌のために建立されたという弁天宮があります(安政2年神社微細、社司由緒調書上帳)。相馬小三郎弟平次郎が宗像大明神は我等祖先が九州にいたとき崇敬した氏神で、この地へ下っても尚信仰を続けていたのであるといって、慶応3年(1867)に宗像大明神の献額しています。宗像神社の御祭神である市杵嶋姫命を弁財天といっており、故に相馬平次郎のいう宗像大明神は弁天社のこと。相馬氏が蓬田に居城したのは文明年間(1469-1486)といわれているので、八幡宮よりも弁天社の古いということになります。
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向拝。
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遠望。
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本殿。
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石灯籠と手水舎。
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狛犬二対。
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御神木。
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蒼前様。
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猿田彦大神・二十三夜堂・庚申塚。
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十和田様。
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弁天堂址を目指してみました。
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森の中に入っていきます。
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大館の中心で元の館神址。
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ただの跡地ではなく、祠が復元されているようです。
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鐘撞堂址など色々と探そうと思いましたが、大量の蚊に襲われて退散しました。気をつけてください。
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