観音寺の南西に鎮座。
入口付近にある庚申塔。多数の名前と「嘉永元戌年申八月吉日(1848)」「當邑講中」「各二世安楽」「配方手傳 久栗坂村」などと彫られています。
庚申塔の裏には「別當權大僧都劔藏院良…(その下は埋没)」と見えます。
かつては観音堂であり、劔藏院という修験の職掌になっていた時期があるのですが、ここにその名残が伺えます。
こちらは何の石碑だろう。
円の中に読めない文字。
その下に「奉正○大神○」…ダメヨーダメダメッ!読めない。
左右の文字も…「久栗坂村…」…ダメッ!読めない。
御祭神は高おかみ神。
水神としても崇拝されています。
縁起によりますと、慶長元年(1596)に当村の開発の際に田地から発見された観世音像を、津軽家中野宮一郎兵衛と村民が堂を建てて崇敬。その場所には1本のケヤキの古木があって御神木といわれていました(ケヤキの古木の下に小祠があったといいます。)。明治初年の神仏分離で高おかみ神を勧請して川上神社と改称。旧村社。
現在の社殿は、当初の場所が狭かったために、明治25年(1892)9月27日に移転改築したもの。当初は村の東南、浜田750番地に社殿が建立されていました。明治42年に一度全焼しているようです。
前身の観音堂は貞享4年(1687)の根井村の検地帳に出ている観音堂。久栗坂じゃなく根井村なんですね。土地勘がない地域なので混乱します。
神社総代はムラで数名が選ばれ、その中から責任役員として諏訪神社の柿崎宮司等3名の宮司が選ばれており、神社のことはムラ総出で行ってきたそうですが、現在は総代が行うことが多いといいます。大祭の準備はムラのカミ・ナカ・シモの各地域から当番制で出されています。
案内板由緒より…『御事暦…髙オカミ神ハ伊弉諾尊ノ御子々座マシ雨ヲ掌ラセ給フ御神ニシテ山上ノ龍神ト申シ奉ル即旱天ニハ雨ヲ降ラシ霖雨ニハ之ヲ晴ラシ千五百秋ノ瑞穂ノ國土ヲ永遠ニ潤シテ五穀豐饒ヲ守ラセ給フ廣大ノ御神徳アリサレバ朝廷ニ於テ炎旱霖雨ノ際ハ髙オカミ神ヲ祀レル社ニ奉幣祈祷ヲ給フヲ例。由緒…慶長元年勸請明治六年三月村社ニ列セラル』
狛犬は参道から見ると、顔だけ社殿を振り返っているようなスタイル。
境内の隅に山頂薬師堂がありました。
庚申塔など。
山神。
女坂。
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