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狐森村は佐野家と楠美家を中心に開発された村です。
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よくある地名かも知れませんが、稲荷神社に相応しい村名ですね。
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森の面影も残っていますし。
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貞享4年検地水帳によりますと稲荷社地が見えます。
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御祭神は宇迦之御魂神。
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創建不詳。明治6年に五幾形稲荷神社を一時合祀。
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しかしながらこの稲荷神社は佐野氏の氏神であったため、元和年間(1615-1624)もしくは寛永年間(1624-1645)であると考えられます。関ヶ原の後に石田三成の二男重成が津軽に落ちのびた時に同道した一人が和田与之介です。和田は佐野と姓を変えてこの地に代々住みました。与之介の守護神白狐を祀った稲荷を建立したのが当狐森稲荷神社です。貞享年間の頃で、その土地の名も狐森村になったと伝えます。神社は最初宮田にありましたが、明治42年に浅井に移りました。元の場所には小さなお堂が残されており、村人からは古宮と呼ばれました。石田三成の二男である重成は津軽家を頼って慶長6年(1601)に若狭小浜から津軽板柳深味に亡命しています。そして津軽では杉山を名乗って津軽杉山の祖となります。随行したのは男子18名、女子3名。津山甚内、和田与之介であり、狐森稲荷神社を祀った佐野与助正之がいます。随行者の多くは深味、神家(信建の命を受けて先導したのが津軽為信の功臣神丹波といわれ、その丹波の一族神家。)の世話で深味周辺に土着して開拓に住持。中には茶道に造詣深い人物がおり、その指導で茶釜の製造が行われ、後に神家によって深味釜として発売されたといいます。余談になりますが、弘前市の二唐刃物鍛造所(津軽為信により弘前藩の武器製造所として召し抱えられました。)の二唐家もその一人であるといいます(初代小坂次郎兵衛は二柄と改名していたことから身を隠していたことが伺えます。)。また、弘前市の大阪屋を代々営む福井家は、初代三郎右衛門が豊臣家の家臣であり、大坂方の残党として弘前に移り住んだと伝えます。藩政時代から受け継がれている冬夏という銘菓があり、4代目の福井三郎右衛門が大坂冬の陣、夏の陣に敗れた先祖の思いを込めて創製したといいます。
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蛙股と木鼻の彫刻。
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面白い形の手水舎。
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末社。
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新築記念寄附者御芳名碑。
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紀年銘明治の馬頭観音。
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こちらは少し離れた場所にあった稲荷宮です。
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小さいのですが小高い場所に鎮座しており、目立っていました。
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神社前の石には御祭神『宇気茂都大神』(紀年銘明治)が彫られていました。
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こちらも神社からは離れた場所にある庚申塔群。
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「南無妙法蓮華経 甲子塔 昭和30年旧3月12日 狐森甲子講中」
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よく見えませんでしたが馬頭観音でしょうか。
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祠は空っぽでした。
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