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御祭神は高淤加美之神。五穀成就の守護神。
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野内鷲尾山腹に鎮座。
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貞享4年検地水帳によりますと、貴布禰社地・境内山があります。
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草創は大同2年(807)坂上田村麿の勧請。 文治5年(1189)源義経が平泉衣川の戦いの後、蝦夷地(北海道)に渡る途中に滞留し海上安全を祈願。
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元禄9年、領内四社の一と称せられ、津軽藩主信政公堂塔を野内龍の口に建立し、深く信仰して年に一度づつ藩主公の代拝あり、風雨不順の季節には四社へ風雨順調を祈願。神徳は著しく天候回復せると伝えます。往時は境内樹木が鬱蒼としてヒバ、イチョウの老木があり、山麓に奇巌散在し景観に富み、八ツ頭の名勝としても名高いそうですが現在は崩れてしまったようです(下記)。明治6年3月村社、同42年8月27日神饌幣帛料供進指定。かつては宮司の屋敷が菊川橋近くにありましたが、寛永3年(1626)3月に家宅が焼失し、その際に宝物も焼失しています。慶安2年に再建。大祭では神楽(権現様を持って回る)がお札を持って門付けして歩き、家ではお札を玄関に貼るそうです。権現様は貴船神社に保管。また、毎月19日に回っていた時には神楽の他にモッコを背負った人が米や金を集めて回ったそうです。
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社殿前の案内板…『御祭神は高オガミ命。社伝によると大同2年(807)坂上田村麻呂の創建という。また、文治5年(1189)平泉衣川の戦いに敗れた源義経が蝦夷地へ落ちのびる時に、この地で海上安全を祈願したという。一説には義経がこの際勧請したとも伝えられるなど、数々の義経伝説がのこっている。慶長年間までは小さなほこらだったが、慶安2年野内村の庄屋蝦名万助と村民によって再建された。元禄9年、4代藩主津軽信政は郡内4社の1つに貴船神社を選び、農業神として五穀豊饒、風雨順調を祈願した。同じ御祭神を祀る京都の貴船神社・吉野の川上神社は、朝廷の祈晴祈雨の神として古代から崇敬され、その影響は全国に及ぶ。菅江真澄の「外ヶ浜つたひ」や、古川古松軒の「東遊雑記」などにも記述されている由緒のある神社の一つである。』
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社殿前の由緒…『わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ明治天皇曾て北日本を國見し玉ひし時前後二回當村に御駐輦の榮を賜はり山色水聲今猶ほ皇恩の渥きに感泣す茲に天皇の神祇に關する御製を掲げて先づ恭しく聖徳の一端を仰ぐ者也謹て當社の社傳を按ずるに山城國愛宕郡官幣中社貴船神社と其祭神を同じうし伊弉諾命の御子高おかみの神申し國初以來靈徳功業眞とに炳焉たり是を以て文武天皇以降歴代朝廷の尊崇頗る篤く旱霧雨水必ず此神を祭り祈る毎に効驗ありと云ふ大同二年坂上田村麿公創めて斯地に勸請し文治五年源義經卿衣川戰後北海渡航の途次當村に淹留し崇敬特に深く其舊跡鷲尾川を始め歴々境内付近に存す降て元録九年津軽信政公領内四社の随一と定め更に祭祀の實を擧て年次五穀の豊饒を祈願し神威靈徳今に於て益々地方に顯つる不肖定衛累代祠官として社頭に奉仕し村民と共に日夕神威の發揚を念とす今次畏くも皇太子殿下御結婚の大典を擧らるるに際し偶ま氏子有志の間に記念建碑の議在り聖徳の萬一に副はんが爲め先づ神社敬拜の至誠を表するは極めて機宜を得たりとなし謹て祭神御事歴の一班を勒し奉りて江湖の參拜者に栞せと云爾 貴船神社奉仕十二代目社掌柿崎定衛謹誌』
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貴船神社は源義経が蝦夷地へ渡海する時に、家来の鷲尾経春が京都鞍馬の貴船明神を勧請し、その無事を祈ったとも伝えます。また、義経の奥方である朝日の前が、義経の後を追って渡海の船中で亡くなったため、野内で火葬し、遺骨を山中に埋め、寺を朝日山安養寺常福院と名付けたそう。野内の海岸にはハナクリ岩という岩島があり、義経が渡海の船をつないだところと伝えています。
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古川古松軒『東遊雑記』にも「此所を越ると大科子オヽキネコの神社と称して御巡見所あり。田村丸の開基といふ。傍に貴船明神の社もあり、いい伝ふ、義経卿蝦夷渡海の節、無難に帰帆なさしめ玉へとて、山城国鞍馬山の貴船明神を勧請し、小さき社を建置き玉ひし旧跡と神主のいひしなり、此所は殊勝に思はれし境内なりし、青森と野内の間に小坂あり、竜の口と称す、此坂の頂より岩城山は申の方に見へ、松前は亥の方に見ゆ」と記されています。
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社殿前の狛犬一対。
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末社稲荷宮。
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猿田彦大神(寛政12年)。
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猿田彦大神は雨の前になると濡れてくるという伝説があります。
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保食神(寛政9年)。
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奉納馬。
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英霊碑(昭和36年)と貴舩神社拜殿改築記念碑(昭和15年)。
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社殿前の広場。かつての境内には細葉の羅漢松の古木があり、大変有名だったそうですが現存しません。
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広場の奥に小道があり、山頂へと歩いて行けます。
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途中の景色。
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山頂。
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見晴らしはよくないです。
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浄瑠璃姫の墓が残っていたと伝える鷲尾山々頂には鷲尾園という公園跡とその石柱(大正4年11月10日)が残っています。
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こちらは倒れて土に埋れてしまっている石碑。
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文字字体は風化されずにしっかりしているので、頑張れば読み取れそうです。書いている内容も大体わかりました(ほぼ上記の由緒に近い内容)。
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見えるかな…?
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龍の口です。あまり面影は残っていません。
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菅江真澄が「外が浜つたひ」にて次のように記しています。 『関のこなたの、みさかいと高う、社のあるにまうづれば、神ぬし、御前をきよめけるがかたりて、これは山城の貴船の神を、いにしへうつし奉る。弁財天といはひまつる末社あり、これなん鬼が女十郎姫のみたまなりとも、又義経のをんなめにてやあらん旭の前といへるが、此君をしたふのこゝろせちに、寄りたる船の中におもき病をして身まかり給ひしを、こゝにけぶりとなし、しらほねは山おくの玉清水といふ村に埋み、塚してしるしをたて、その寺を朝日山安養寺常福院といふ(中略)その鬼の娘とはいづこの鬼にてか。云、蝦夷などのたけきをいひしにや、朝日の前も、いづらの人ともさらにつたへもさふらはず』
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貴船神社の末社には元禄14年再建で弘化3年廃社の後(元禄14年8月・弘化3年7月の棟札あり)に漁事繁栄のために再び再建された弁天宮・由緒不明で天明年間に堂宇が大破し、願主もなく、自然廃宮した神明宮・往古より存在するも建立年代不詳で、棟方角右衛門、中畑半右衛門、甲斐森治部等によって再建された後に自然廃宮となった惣染宮があります。こちらはその弁天宮。
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神仏混淆に際して弁天宮は胸肩神社に改める願いが出されていますが、許可が得られず廃社になったとありますが、このように貴船神社から少し離れた場所にてひっそりと鎮座しております。
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