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詩人であり英文学者でもあった土井晩翠が満80歳(昭和27年)で亡くなるまでの晩年3年間を過ごした旧宅。
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生前の居宅をそのままに残し、愛用品や写真、書画などが展示されています。
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庭には仙台空襲で焼けたものの奇跡的に復活を遂げたヒイラギモクセイの樹木があり、晩翠の命日(10月19日)付近になると白い花を咲かせます。
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石碑「天地有情」(明治32年に出版した第一詩集の題名)。
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『土井晩翠は少年時代から新体詩や英文学を愛好し、旧制二高進学後は「尚志会雑誌」に詩を発表、東京帝国大学在学中には、高山樗牛や大町桂月などとともに、「帝国文学」の編集委員を務めた。明治32年(1899年)、樗牛らの支援を受け第一詩集「天地有情」を刊行、清新な熱情と叙事詩風な作風によって、詩壇を二分する晩翠・藤村時代を形成した。明治33年(1900年)、旧制二高の教授となり帰仙すると、欧州遊学の一時期を除き仙台を離れず、詩集「暁鐘」「東海遊子吟」「曙光」などを次々と刊行し、詩人としての名声を確立するとともに、ホーマーの「イーリアス」「オヂュッセーア」を原典から完訳するなど、文学史上に大きな足跡を残した。晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」は、明治34年に中学唱歌に採録されたもので、世界の人々に愛唱されている不朽の名作である。こうした業績に対し、昭和25年(1950年)、詩人として初めて文化勲章が贈られている。昭和27年(1952年)8月、仙台城本丸跡に「荒城の月」詩碑が建立されたのを見届け、間も無く永眠した。享年80歳であった。昭和20年、戦災によって旧邸と3万冊もの蔵書を焼失するという苦境に陥った際、晩翠会の人々が発案して晩翠草堂を建設し、贈っている。「天地有情」の碑は、旧制二高の教え子が晩翠に贈ったものである。』
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晩翠の教え子達/旧制二高教室にて。
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晩翠草堂の奥には仙台ユネスコ会館があります。案内板によりますと…『民間ユネスコ運動発祥の地。昭和22年(1947年)、仙台ユネスコ協力会が発足した。これは世界初の民間ユネスコ教会であり、発会式において「日本人がユネスコを通して世界平和に貢献する」決意が表明された。この声明は障子紙に書かれてパリのユネスコ本部に送られ、その年に開かれたユネスコ総会で大きな反響を呼んだ。国際連合加盟の5年前に仙台の地でスタートした民間ユネスコ運動は、日本の国際社会への復帰と貢献の原点であり、ユネスコへの加盟が認められる原動力ともなった。その後の様々な活動なども評価され、昭和59年(1984年)、第1回民間ユネスコ運動世界大会が仙台で開催されている。』
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民間ユネスコ運動発祥記念碑「ブーツの娘/佐藤忠良作」…世界平和を見守る像が、パリ-ユネスコ本部前のもう一人の娘と向き合う形で榴ヶ岡公園に建てられている。
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