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湯島神社男坂を下ったところにあります。
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男坂下にある復興地蔵尊は大正12年の関東大震災で亡くなった方々の冥福と地元の復興・発展を祈り、当時の町会長を中心に心城院の協力の下で建立されたもの。その後の東京大空襲でこの町会が一軒の焼失もなく免れたことから、これはお地蔵様の御加護によるものと人々の心に深く刻まれました。戦後復興の兆しが見えてきた頃のある朝に突然現れた由緒不明の尊像と共に、近隣の大切な守護尊となっています。
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通称湯島聖天柳井堂。江戸三十三観音第七番札所。
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当山はもと宝珠弁財天と称され、湯島天満宮の境内にありました。湯島天満宮は菅原道真公を祭神としていますが、道真公はとくに聖天(大聖歓喜天)信仰が篤く、ために「天満大自在天」ともいわれました。
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ときに元禄7年、湯島天神の別当職にあった天台宗喜見院3世の宥海上人が、道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を奉安し開かれたのが当山のはじめで、この本尊は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。以来、当山は湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、紀国屋文左エ門も当山に帰依された一人でありました。
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享保のころ幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと富くじを発行しました。江戸では谷中感応寺、目黒滝泉寺とならび、湯島喜見院が公認で富くじが行われ、江戸の「三富」といわれ、後に江戸各所で行われるようになりました。
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当時の喜見院は相当の境域があった様ですが、明治維新の神仏分離、排仏の嵐で応時の様相は一変し、寺名も心城院と改められ、今日に至っています。
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当山は開基以来幾度となく発生した江戸の大火・大正大震災や空襲の戦災にも遭うことなくきましたが、堂宇は近年に改修されました。
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さて当山は江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから柳井堂と称され、これについて徳側時代の文献には次のように有ります。
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柳の井(江戸砂子 御府内備考)この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり。
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この名水により大震災の時、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の唯一の水として生命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けました。また境内の弁財天放生池は、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、いまも「亀の子寺」として親しまれ、300年の昔から信仰の篤い参詣者が絶えません。
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水琴窟もありました。
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