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東京十社の一社。
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御祭:菊理姫命、伊弉姫命、伊弉册命。縁結び、商談結び、家庭平穏等様々な仲介をする神で、また、虫歯にも霊験あり、昭和初期まで御守に房楊枝が添えられていたといいます。
相殿:大国主命、菅原道真公。
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境内社:八幡神社、関東松尾神社、富士浅間社、福受稲荷神社、伏見稲荷社、合祀社(三峯社・玉津島社・天満天神社・山王社・住吉社)
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創建は天暦2年(948年)。
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天暦年間(947-57)に本郷一丁目付近に創建されたと伝えます。
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元和2年(1616)2代将軍徳川秀忠の命により小石川植物園の地へ遷座、慶安4年(1651)白山御殿造立に伴い、明暦元年(1655)当地に遷座。
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5代将軍徳川家綱の生母桂昌院の崇敬篤く、元禄3年(1690)正月29日社領30石の御朱印状を拝領。地名白山は当社の在るところから、また小石川は白山神社本社のある加賀国石川郡(石川県)より名づけられています。
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狛犬の目がキラーン♪
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手水舎。
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神輿倉庫。
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伏見稲荷社。
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福受稲荷神社。
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福受稲荷神社の狛猫(笑)
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合祀社。
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富士浅間社。
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なかなか大きな富士塚。
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毎年6月中旬に、文京花の五大まつりの一つ「文京あじさいまつり」が開催されており、境内や隣接する白山公園では約3000株の紫陽花を見ることができ、その際に富士塚も公開されています。
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このように常時富士塚に立ち入ることができるとは限らないので、地方者にはなかなか厳しいんですよね。東京に住んでいればはまっていそう(笑)
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以下長文ですが境内案内板より白山神社の由緒。
「祭神 菊理姫命 伊弉姫命 伊弉册命。例大祭日9月21日。当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に5代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の1つである。」
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御神徳。
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関東松尾神社由緒。
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「御祭神 大山咋命、中津島姫命。当社は関東松尾神社と称し、江戸時代白山神社の境内地に京都嵐松尾大社の御分霊を奉勧請す。昭和28年6月酒類関係業者により、老朽化せし御社を改修し盛大に遷座祭を施行す。本社なる松尾大社は大宝元年京都嵐山北松尾山に鎮座せられ、京都の大社にて旧制官幣大社である。この神酒造の神として世に著れ、酒蔵札にも『奉祭祀 秦氏神 松尾大明神 常磐堅磐夜乃守利日乃護利幸賜』とあり、酒造家の尊信が頗る厚く、現に遠近より酒造・酒販業者の餐する者甚だ多い。この勧請社なる当社も酒類関係業者の尊崇厚く、毎年新嘗月なる11月に吉日を選んで大祭が厳修せられている。」
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八幡神社由緒。
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「祭神 譽田別命 姫命 八幡太郎義家公。当社は人皇70代後冷泉帝永承六年(1051年)4月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして崇敬者多し。昭和50年老朽化せし社殿改修し同年12月10日遷座祭施行す(なお白山神社氏子中の協賛による)」
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御神木旗桜。「この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。」。
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孫文先生座石由緒。「昭和43年度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に、白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石があるとの御話がありました。依而昭和44年度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし、其の当時の事をお伺ひ致した処、明治43年5月中旬の一夜、孫文先生は滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折、たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ、此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました。宮崎滔天全集の中に、孫文先生は当神社に程近ひ小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております。此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝うべく、兼ねてより総代会にて屡々議題に上りましたが、此の度宮総代酒井瀧蔵氏の御発案を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果、此の腰掛石の記念碑建立の運びと成り、之を永代史跡として残す事に成った次第であります。」
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